
【エリに神の裁きを伝えるサムエル】ジョン・シングルトン・コプリー
>>サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとした。
長男の名はヨエル、次男の名はアビヤである。彼らはベエル・シェバで、さばきつかさであった。
この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。
そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、彼に言った。
「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください」
彼らが、「私たちをさばく王を与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。
主はサムエルに仰せられた。
「この民があなたの言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。
わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。
今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ」
そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。
そして言った。
「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。
自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。
あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。
あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。
あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。
あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。
あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。
その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない」
それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。
「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。
私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう」
サムエルは、この民の言うことすべてを聞いて、それを主の耳に入れた。
主はサムエルに仰せられた。
「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ」
そこで、サムエルはイスラエルの人々に、「おのおの自分の町に帰りなさい」と言った。
(サムエル記第一、第8章)
昔、まだイエスさまを信じて間もなく、初めて聖書を読んでいた頃……聖書の解説的な部分に「キリスト教徒は互いに従いあうことを理想の人間関係としている」といったような一文がありました。
わたし、ここ読んだ時結構驚いたんですよね。「確かにその通りだなあ~。その相手が誰であれ、お互いに主従の主ではなく従の気持ちでいたら、そうした譲りあう気持ちさえ持っていたら、人間関係っていうのは基本的にうまくいくだろうなあ」と思ったので。
逆に、いわゆる「WINWINの関係」(ここで、両手の人差し指と中指を曲げましょう・笑)というのは、互いに勝つのを理想とする人間関係と言いますか、そうなれることもあると思うけれど、「いつも」は無理じゃないかなあと個人的には思ったりするわけです(^^;)
その~、それが奥さんと旦那さんの関係でも、友達関係でも恋人関係でもなんでも……お互い「主」を主張しあう時に、時々喧嘩になったりするのかなって思うんですよね。なんというか、ここのところが難しいところで、たとえば人がふたりいて、片方ばかりがいつも「主」でもう一方がず~っと「従」の立場でいると、熟年離婚という言葉があるみたいに、長く「従」として相手が「主」であることを容認してきた立場の奥さんなどが、「もうそういうの疲れたし、限界なの。子供も大きくなったから、ほなバイナラ☆」と突然なったりする。友達関係などでも、このグループにいると自分が一番下っ端の「従」みたいな感じだな
……となったら、特段「主」としてリーダーみたいになりたいわけでなくても、他のグループの子たちと対等な人間関係を築こうとするかもしれない。
まあ、この場合は神さまと人との関係と違って、あくまで人間同士のことなので、「主」が上で「従」の側が下ということでもなく……おばさん同士のレストランでの集まりで、最後に会計票の奪いあいとなり「わたしが払うわよ!」、「いいわよ、わたしが……」と、お互いに下手に出てばかりいるのが正しい人間関係とも言えないような気がします。
でもやっぱり、ニュースで紛争のことなどを聞いていると……どこかの国が「主」として別の国を「従」として従わせようとするところに問題があるのかなという気がしたり。とはいえ、イスラエルやパレスチナの問題などは複雑すぎて、一般的な価値観でいえば「収拾がつくこともなければ、互いに平和を構築することはまずもって不可能ではないか」としか思えません。でも、ウクライナの紛争のことなど、祈ることしか出来なくとも、自分に出来る小さなことと言えば、たぶん日常生活のそんなことなんだろうなとは思います。「従」の立場に立って相手の話をよく聞いてあげるとか、人間関係的なことで譲れるところは譲ってあげるとか……。
でも、個人的にはこれも難しいなあ~と思ったりします。やっぱり人間っていうのは複雑な生き物なので、「あ、この人いつでも譲ってくれるんだ」となった途端、何か人間として軽く見られるようになって損な立場にばかり立たされるとなったら……それはそれでまた「ちょっと考えなきゃなあ
」みたいになったり。また家族など、長く一緒にいる人とほど、人間関係が硬直化してるので、ずっと旦那さんが「主」の立場で奥さんが「従」の立場だったりすると……その状態を長く続けてから突然旦那さんが変わるとか、退職してからは家事をよく手伝ってくれるようになった――といったようなことは少なく、それでも「孫の誕生」や「奥さんの病気によって」、「若い頃に苦労をかけたから」といった理由によって相手が変わってくれるといいのですが、多くの場合はそうなることは難しいのではないでしょうか(ちなみに、わたしが知っているのはノンクリスチャンの方の家庭だけなんですけど^^;)。
今回は、冒頭にサムエル記を引用してみたのですが、わたし、ここを最初に読んだ時も結構驚きました神さまに選ばれたイスラエル民族は、神さまに「王さま」を求め、神さまは「そのことで苦労することになるよ」と預言者サムエルを通して語っていたのに、「いいんです。それでいいから、他の国々と同じように王さまに治めてもらいたいんです
」と答えてしまう。
その~、最近ヨーロッパ系の歴史物の本を読んだりドラマを見たりしていて……「王さま」っていうのは一度王さまになってしまうと、それは人間の権力の頂点に立つということであり、人の間にあってはずっと「主」であり続けるわけですよね。ところが、この王さまっていうのはなんでも好きに出来るかといえばそういうことでもなく、国庫が不如意と言いますか、ようするに国にお金がなかったりして戦争してみたり、そうした際に腹黒いが金は持っている貴族のことを味方につけたり、自分の耳に痛いことを言ってくる聖職者のことは遠ざけてみたりなどなど……「王さま」としてうまく国を総べ治めたといったタイプの方のほうが少ないのではないかと思ったりしたわけです。
旧約聖書は短く約めていえば「神さまに選ばれたイスラエル民族がいかにその神に従えなかったか」の背信史として読めると思うわけですけど、この世界で唯一絶対の方であるとして人間が足を屈め、ひたすら「従」であり続けなければならないのはこの方、イエス・キリストだけだと思います。
「まあ、クリスチャンの人たちにとってはそうだろうとも」という話ではありますが、主従の「従」であるということは、「主」である方がそのしもべに対して優しく親切であった場合――本当に幸せだと思うんですよね
そして、死んでからもそれ以上に幸せでいられるというのは、そうした約束をくださる神さまというのはイエス・キリスト以外誰もおられないと思うわけです
この、「王の王、主の主」である方に、忠実なるしもべとして生涯をまっとう出来るようにと、クリスマスシーズンといった特別な時期だけでなく、日々思わされるものであります
それではまた~!!
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