神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

結果の出ない努力。

2020年01月29日 | キリスト教
【強制労働】(いらすとやさんにはほんと、色んなイラスト素材がありますね・笑)


 結果の出ない努力は無意味か……ということを、これまでの人生の折々で考えてきましたし、他のみなさんもそうした経験が絶対にあると思います。

 以前、心理学の本か何かを読んでいた時、人の心というのは物事がうまくいかなかった時、それを<合理化>しようとするものだ、といったことが書いてあった記憶があります。

 一番わかりやすいのがイソップ童話のキツネとブドウの話

 高いところになっているブドウの実をどうにかして取ろうと一生懸命ジャンプするキツネ。でも、何をどうしてもこのブドウが取れないとなると、キツネは「どうせあのブドウはすっぱかったろうから、べつにいいさ」と呟いて、その場から去ってゆくのです。

 これがわかりやすい人の<合理化>の心理ということらしく……わたしもこれと似たようなことはこれまでの人生でしたことがあるなあと思い、ちょっと笑ってしまいました(^^;)

 また、スポーツ選手の方の試合で負けたあとのインタビューなどを聞いていると、この合理化のオンパレードであることがわかります。わたしは一生懸命努力している方を皮肉ろうとはまったく思いませんし、むしろ試合に負けて自分ひとりで色々静かに考えたいような時にでも――マスコミやメディアの人々に囲まれて、もっともらしいことを言って対応しなければならないというのは大変なことだと感じています(何分、こうした時の対応が悪いと袋叩きにされるというのは、誰もがわかっているわけですから)。

 つまり、今回の試合ではこうした点が悪かった、良くなかった、AがBでCであることはわかっていたから、DにならないようEしたつもりだったが駄目だった、だから次の試合ではなるべくFになれるようこれから対策を練り、それを実行に移すつもりだ……などなど。

 これだけ努力したのに、結果の実は見なかった――という場合、それが次に繋がればいいのですが、負のデススパイラルに嵌まってしまったように、そこからさらに落ち込んでいくということが、人生には時にあるものなのではないでしょうか。

 もちろん、鬱病と同じく、そうした鬱の森から抜け出たあとには、それがどんなに苦しくつらいものであったにしても、「あれがあって良かった」と自分の過去を振り返れる場合もあります。でも途中で倒れて絶望のあまり自殺してしまう方もいることを思うと……結果の出ない努力は無駄なのかとの問いに悩まされてしまいます。

 わたしの場合、「悩んでも無意味なのにそのことで悩む」といった種類の悩みと、「悩んだことでそれがのちに糧になった」という意味のある悩みと今も2種類あるように感じています。

 前者は悩みたくないのにその負のデススパイラルに嵌まっていくといった種類のもので、後者は仮にメダルを取るとかそうした結果が残らなかったとしても、それでも努力を続けたことで信仰の次のステージへと進めたといった、樹木が少しずつその年輪を広げていくといったような、何かそんな感じのする努力です。

 そして、前者の一見意味のないように思える悩みについても、そうしたことで悩む方というのはかなりたくさんいらっしゃいますから、そうした方の「気持ちがわかる」という意味ではプラスになりえますし、後者の努力というのも、単に周囲の人々から賞賛されたり注目を浴びたりすることはないというだけで――かなり地味で骨太な努力ですが、こちら側の努力の実というのは、「(かなり待たされてのち)ある日突然来る」タイプのものなのではないでしょうか。

 たとえば、わたしが自分の庭の樹木を見ても、大体きのうも今日も明日も、成長の具合というのは同じで、パッと見、まるで変化など見られません。けれども、何年か後には幹も太く立派になり、枝にも大きな実を実らせたり……といったように、こうした種類の努力で「まったく報われない」ということはない気がします。

 つまり、結果が出る・出ないというのは――もしかして、かなりのところ他者の評価が深く関わってくるのではないでしょうか。たとえば、メダルが取れるといった結果が出なくても、その方の家族や周囲の方というのは、そのためにその人がどのくらい努力したかを知っている。そして、そのことがわかっているからこそ、ただ黙って慰めの言葉をかけてくれるとか、何かそうした対応でしょう。

 けれども、「目に見える結果」という華やかさを求める心というのは、当然誰にもあり、その部分が望んだとおりでないと、「無駄な努力をして惨めに落胆する結果で終わってしまった」と、時に落ち込むことになるのかもしれません。

 先日、こんな話を聞きました……というより、前にも何度か似た話というのは聞いたことがありました。ある方がマラソン大会へ出て、本当にあともう少しでゴールという瞬間、時間切れでリタイアすることになったというお話。。。

 100キロマラソンという気狂いじみた競技が世の中にはあるらしく、大体90キロともう少しくらい走ったところで、その方はリタイアすることになった、と。この100キロマラソンのために準備してきた努力というのも相当なものですし、この大会の日の前まで、どれほど走りこんできたかというそうしたことも含めて――「結果が出なくて残念だった」、「ゴールできなくて残念だった」ということに、この場合なってしまうのでしょうか?

 ところが、ですね。完走できなくても御本人はとても清々しい笑顔で大会を終えられたそうです。沿道の方々の「がんばってー」と叫ぶあたたかい声や、大会スタッフさんの細やかな気遣いなど、人の優しさやあたたかさにたくさん触れたことで、「ゴール出来なくて残念だったけど、色々なことがとても良かった」と。

 さて、人生百年時代と言ったりしますが、個人的な信仰上の悩みとして、「自分はもしやこのままイエスさまの望まれる信仰のゴールテープを切ることなく人生を終えてしまうのではなかろーか」と思うことがよくあります。

 たとえて言うなら、100キロマラソンで97キロ地点くらいまで走ったのに、結局ゴールは出来なかった……みたいなことです。もちろん、イエスさまはそれでもわたしがそれまでどの程度祈ったかなど、色々な人生上の都合等も考慮して、十分評価はしてくださるかもしれません。

 現実の100キロマラソンの選手の方は、完走された方もそうでない方も、ともに素晴らしい結果を残されたと思いますし、そのお話にとても感動します。ただ、これを<信仰>ということに置き換えてみますと、「それでいいのだろうか。いや、いいはずがない」みたいになってしまうんですよね(^^;)


 >>私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

(コリント人への手紙第一、第9章23~27節)


 今のところ、わたしが信仰のレースでイエスさまからいただけそうなのは、<参加賞>というそれだけなのですが、もちろん、それだけでもわたしは天国へ行くことが出来ますし、それまでにわたしが「わたしなりに」努力してきたことをイエスさまはお認めになってもくださるでしょう。

 けれども自分的に、「あなたはよくやった。よいしもべだ」と言っていただけるようなことは何もしていないというのが実情ですので(汗)、信仰のマラソンのゴールテープを切るまでの間に――つまりは生きている間、もっともっと「何か」できることはないかと、模索する日々というのが続きそうです。。。

 それではまた~!!





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