神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

天の御国。

2017年08月15日 | キリスト教
【最後の審判三部作之三:天国の平原】ジョン・マーティン


 仮に天国という場所があるとして(いえ、わたしは100%完璧にそのように信じているのですけれども^^;)、今わたしたちが生きている<この世>とその場所とは、何が一番大きく違うのでしょうか。

 キリスト教でも仏教でもイスラム教でも、あるいは他の多くの宗教で、天国へ行くとそこでは悩みや苦しみがなくなると言われています。

 そして、これはあくまでわたしが思うに、ということなんですけど、天国という場所と<この世>の違い――それは「神さまの支配」の違いではないかという気がします。

 もちろん、<この世>と呼ばれる場所も神さまが創造して支配しておられるわけですけれども、今<この世>という場所に生きていて、「俺ってば、今日も神さまの愛を1000%感じまくってるぜ!!」という状態で365日24時間過ごせる人というのはおそらくいないのではないかと思います(^^;)

 ところが、神さまの支配しておられる天国のほうでは、いつでもそこに「神さまがおられる」とはっきりとわたしたちに感じられ、またそのような方の治めておられる場所たがら、罪も死もなく100%完璧に穢れのない世界でもあるわけですよね。

 でも、今わたしたちが生きている<この世>という場所では、「神さまなんてほんとにいるの~?」と、多くの方が疑問を持たざるをえない世界です。けれど、そんな中で(キリスト教的価値観でいえば)神さまのことを最後まで信じきった者だけが天国へ行くことが出来る、ということなのだと思います(もちろん、このためにはイエス・キリストの十字架上での血の贖いが自分のためになされたものであることを信じる必要があります)。

 今現在、わたしたちの目には肉眼的な意味では神さまの姿が見えませんし、その愛を強く感じることの出来る人もいれば、あまりその力を感じられないという方もおられることと思います。

 けれども、天国へ行ったら――霊の目には、神さまの御臨在がどのように見えるのか、捉えられるのか、わたしにはわかりませんが――とにかくはっきりと「神さまがいらっしゃる」ことがわかるに違いありません。

 また、イエスさまのことをしっかりと信じ、堅く信仰に立っていたとしても、長い人生の中では時にほんの短い瞬間でも不信仰になってしまったりすることはあったりするものですよね(^^;)

 でも、天国ではもう不信仰なんて絶対生じえないわけです。だって、「そこに神さまがいらっしゃる」ということがはっきりわかる世界なのですから……。

 けれども、<この世>において神さまは、御自身をお現しになることについて、随分制限を儲けられました。

 ある特定の民族(ユダヤ人、イスラエル民族)を選び、彼らを根気強く導き続けて特別な民とし、その後、この民族の中から御自身の御子であるイエス・キリストをこの世の救世主(メシア)として誕生させ、そして彼の十字架上の死と血の贖い、そして復活により、その後のこの世に福音をもたらせました。御自身の御子を信じる者すべてを、神さまの天国へ引き上げよう、との……。

 こうした種類の選民思想に、わたしも以前は「そんなの変じゃん!」と思ったものでしたが、教会で聖霊を受けると突然そのことが真理であることがわかるという、これはそうした話だったりします(つまり、キリスト教徒というのはこの同じ体験をした人々の集まりということです^^;)。

 これは現代風に言い換えれば、「神の御国(天国)」という特別なホームページをアクセスするためのパスワードとして、イエス・キリストの十字架上の血の贖いが自分のためのものであったことを信じる、というその暗号が必要だ、ということであるかもしれません。

 わたしも、キリスト教というものに対して(エ○バやモ○モン教の噂話などから)あまりいい印象を昔は持っていませんでしたし、キリスト教の神だけは絶対に本当の神でないと思っていたものでした。

 けれども、すべての人にIDは平等に与えられていながらも、パスワードだけがどうしてもわからなくて「神の御国(天国)」へ入ることが出来ない――という方は本当にたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

 そうした方には是非一度、そこに「イエス・キリスト」とパスワードを入れることをお勧め致します(^^;)

 何故といって、そのホームページを見て、教会を通した神さまの情報を得るためには、そのことがどうしても必須となるからです。

 つまり、神さまに対して「何故そのような形で御自身を信じる者を神は神なのに制限されたのか」とか、人間の側で文句を言っても仕方ないのですよね。何故なら、この世界も全宇宙も神の物であり、神さまはそれを御自身のなさりたいようにされる主権をお持ちの方なのですから。


 >>神はモーセに、「わたしは自分をあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。

 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。

 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。

 すると、あなたこう言うでしょう。

「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう」

 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。

(ローマ人への手紙、第9章15~20節)


 >>人の心は何よりも陰険で、
 それは直らない。
 だれが、それを知ることができよう。
 わたし、主が心を探り、思いを調べ、
 それぞれの生き方により、
 行ないの結ぶ実によって報いる。

(エレミヤ書、第17章9~10節)


 >>私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。

(伝道者の書、第7章29節)


 そして、一度教会で父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊さまの三位一体の神の第三位格であるこの聖霊を受けると、神さまの御計画がどれほど恵み深く完璧にして完全であるかということがわかってきます。

 もちろん、<この世>という場所は不完全で、いずれ滅びゆく世界です。色々不幸なことがあり、悪や悪霊、あるいは人生上の運の悪さ、あるいは巡りあわせの悪さ、与えられた条件の悪さなどにより、苦しみ悩んでいる人がたくさんいます。

 このような状態を放置し、御自身が生んだ者であるはずの人間を幸福にするための努力を神が一切なさっていないように見えるから、この世界に神などいないのだ……と、そう思う気持ちもよくわかります(何故なら、以前はわたしもそうだったのですから^^;)。

 また、イエス・キリストがもし本当に神なら、何故歴史的にこんなにも多く宗教戦争が起き、異教徒だけでなく、キリスト教徒同士でもこんなにも大量の血を大地に流すことになったのかとの議論もあるでしょう。

 けれども、そうしたことも聖書の中に書いてあることですし、そうした情報を受け、また聖霊さまを通した解き証しを受ける時――天国では神さまの100%の支配の下で人はみな幸福に暮らすことが出来るとわかってくるのではないでしょうか。

 わたしも日により、「今日は30%くらいしか神さまが見えない」、「臨在を感じない」ということはよくあります。いえ、もしかしたら30%でも、数字的にはいいほうかもしれません。神さまのこと以外に関心が向かっていることも多いですし、でもそんな中でも365日、24時間神さまの支配を受けているとは常に感じています。

 そして、一度この感覚が聖霊さまを通してわかると、自然、人生上に起きるすべてのことを神さまに感謝し賛美するという方向に人生の舵を切るようになっていきます(マーリン・キャロザースさんの感謝と賛美の教え♪^^)


 >>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

(ローマ人への手紙、第8章28節)


 >>いつも喜んでいなさい。

 絶えず祈りなさい。

 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

(テサロニケ人への手紙、第5章16~18節)


 この世の中、なんて不公平なんだろう……と感じている方は多いと思います。その反面、神さまは非常に平等な一面を持ってらおられ、今、蟻のように小さく見える人を巨象を倒して王の位に就けるということをされますし、この世界の生き物の中には「こんなものが生きていてなんになるのだろう」といった種族が存在しますが、むしろそのような人をこそを用いられ、業をなしてくださるのです。

 他の色々なことを試してみたが人生が好転しない、神社仏閣にいつも祈り、その他たくさんの縁起も担いでいるが、何ひとつとして人生にいいことがない……と感じられる方がいましたら、「キリスト教?いや、あれだけは神じゃない」と偏見を持つことなく、一度信じてみることを心からお勧めするものですm(_ _)m

 それではまた~!!


 >>神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれ決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

(使徒の働き、第17章26~27節)





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