神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

正負の法則。

2024年12月05日 | キリスト教

【スコアボードのマイナスにばかり点数が入って9回裏までやって来ても、クリスチャン(キリスト教徒)には一切何も関係ありません。何故なら、イエスさまが最後に9回裏でバッターボックスに立てば、それでサヨナラホームランの連続となるからなのです

 

 美輪明宏さんの著書に、「正負の法則」という本があります♪

 

 わたしも読んだのかなり前なので、細かいところまで内容覚えてないものの(探せば部屋の本の山のどこかにあるはず)、簡単にいうと、「人生はいいこと(正)ばかりが続くことはなく、悪いこと(負)ばかりが続くことはない。どちらにも必ず終わりがある」ということだったと思います

 

 そのことが、美輪先生の含蓄あるお言葉によって語られていて、読んだあと誰もが「わかるわかる~」&「ためになる~!!」と感じる、そんな本じゃないかな~と記憶しております(とにかく「読んで損した」みたいになる人はまずもっていないだろう……という意味においてもさくっと読める名著と思います♪)。

 

 ただ、ここのブログはマーリン・キャロザースさんの「いいことも悪いことも神さまに感謝する」としつこくずっと語ってきているブログですので、「美輪先生の素晴らしいお話と反するやろがい!!」ということではあるのですが、わたし、仏教の本とか人生哲学の本とかも普通に好きなので、自分がキリスト教徒なため、そちらの教えを最上として離れることはなく、そうした色々な思想を混ぜたいともまったく考えていないというそれだけなのです。

 

 それで、そのことを前提に語るとしますと、マーリン・キャロザース先生の「感謝の賛美の教え」を実践していると、わたし、今までの人生で一回か二回くらい「疲れた……」みたいになったことがあったわけです。まあ、祈っていて神さまの語られた方向と真逆に進んでいたりと、そうした原因もまた自分の中にある――といった意味では自分が悪いとも言えましょう。

 

 とはいえ、突然どしゃぶりの雨が降ってきて傘を持っていなくても感謝、通りかかったタクシーに泥をぶっかけられても感謝、そんな中道端ですっ転び、たくさんの人が見ていて恥かしかった&足に青痣まで出来た……そんなことが一日のうちに起こったとしても、こんな程度のことは容易に神さまに感謝できます

 

 でも、それは自分ひとりのことだけであればの話であって、人が関わってくるとなかなか難しいことになってきます。簡単にいうと、自分ひとりがどしゃ降りの雨にあって風邪をひくとかならともかく、その時一緒にいた友達が風邪ひいたらどうしようとか、泥を一緒にひっかぶった方がいて、「もう最悪!!」とその後ずっと不機嫌にイライラしているであるとか、自分ひとりがバスの真ん中ですっ転び、一緒にいる人まで「わたしまで恥かしいんだけどww」となるとか……そうした時、自分はともかくとして「相手に悪かったなあ」とか「申し訳なかったなあ」と感じる気持ちとともに、ちょっとだけ感謝が難しくなります。

 

 でもこれもまた人生の困難レベルとしてはほんのささやかばかりのもので、人間関係的にもっと難しい「なんでそんなことになったのだろう」といったことになると、イエスさまにそうしたすべてを委ねて聖霊さまを通して祈っていたとしても、問題が根本的に解決しないとか、そうしたことはありえると思うわけです(^^;)

 

 とはいえ、「人生で起きたいいことも悪いことも感謝するんでしょォ?」という考えすらも退けて、さらに感謝&賛美の実践を続けてはいくわけですけど……時々、間違いなく「この問題はもう行き止まりだな」ということがあったりするわけです。解決の時がまだ来ていないだけであるとか、理由は色々存在するでしょうけれども、そうした時に極々々々たま~に、「もう疲れた」といったようになることはある、と言いますか。

 

 でも、個人的にはそんなふうになったことは今までに数えるほどしかないわけですから、それ以上に「人生で起きたいいことも悪いこともすべてのことを神さまに感謝する」ことの実践は、総体的に利益のほうが大きいとは思います。

 

 >>神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 

(ローマ人への手紙、第8章28節)

 

 とはいえ、「総体的に利益が大きい?」なんて聞くと、「ん?それは何かおかしかないかい?」みたいにも感じますよね。また、そもそもそ神さまにあらゆることを感謝することも賛美することも……そうすることで人生でいいことが起こってくるからとか、それがもともとの最初の理由や目的ではないわけです。

 

 いわゆる「引き寄せの法則」といったものと、マーリン・キャロザース先生の「いいことも悪いことも、すべてのことを神さま、イエスさまに聖霊さまを通して感謝し賛美する」ということの違いは、ここかもしれません。「人生のあらゆることを感謝していると、最高にして最善の結果がもたらされる」――それは、聖書土台、キリスト教土台でもまったく同じことです。けれど、なんと言いますか、それで一流の舞台女優になったですとか、ミュージカルスターになったとか、何かこう……サッカー選手としてJリーグで活躍するとか、野球のプロ選手になれるとか、オリンピックの金メダリストになるとか、必ずしもそんなに華やかなことばかりが起きるわけではない。

 

 でも、そうしたところをさらに神さまに感謝し、イエスさまを賛美していくと――通常ではありえないと言いますか、考えられないほどの恵みが人生に注がれてくるというのは本当のことだと思います。ただそれはあくまで「その人にとっての」とか、「わたしにとっての」といった場合がおそらく結構あると思いますので、外側から見ると物凄く地味というか、わたしにとっては「これは間違いなく神さまだ!イエスさまの御力だ~!!」みたいに感じて、内側から喜びに満たされるようなことであっても、他の人、特にノンクリスチャンの方から見たりすると、「三億くらい当たったら、まあ『すげえな』となるけどね」という感じで、感動が薄い場合があるかもしれません(^^;)

 

 でも確かに、ここにほんのちょっとだけプラスして、「いいことばかりが続くわけもなければ、悪いことばかりが続くことはない」、「どんないいことにも悪いことにも必ず終わりがある」って、励ましになることだなって思ったんですよね。聖書には>>「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」(伝道者の書、第7章14節)という言葉がありますが、「オレ/わたしの人生、逆境ばかりだよ~!!」という方がいらっしゃいましたら、イエスさまにある感謝と賛美には本当に力があると思います。

 

 何故かというと、苦しい時、つらい時にも聖霊さまを通して力が注がれてくるので、「普通なら心が折れてるな」という時にもさして落ち込まず、人の非難中傷といったものも、イエスさまがバッターボックスに立ってカキーン!カキーン!!と打ち返してくださるので、あなたは本来なら受けるはずの衝撃を感じないで済む……といったようなことが、間違いなく起きてくるからなのです(ただし、こうした感覚的なことは本人にのみ理解される、あるいは同じ信仰の対応と歩みをしている方とだけ「わかる、わかる、めっちゃそれわかる~!!」となることだと思うんですよね、たぶん^^;)。

 

 それではまた~!!

 

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« わたしがキリスト教について... | トップ | 物欲がないってどんなこと? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事