神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

利他主義と共生。

2020年06月24日 | キリスト教

 無印良品さんから、「コオロギせんべい」なるものが発売されているそうです。

 リンクを張った先の無印良品さんのページにもあるとおり……昆虫食というのは、栄養価が高く環境への負担も少ないことから、来たるべき食糧危機の備えとして、今とても関心を集めているとのことなのですが――無印良品さんのこちらの商品は、コオロギをパウダー状にしたものが使用されていて、お味としてはエビっぽい感じの味がするそうです。

 いえ、こんな紹介しておいて「オメェは食ってねえのかよ☆」という話なのですが……その~、今アフリカや中東のほうなどで、サバクトビバッタのことが報道されてたりしますよね。

 このサバクトビバッタの被害のせいで、これからアフリカなどでは深刻な飢饉が起きるのではないか、と。そこで「このバッタを食用にして、パウダー状せんべいにするのはどうだろう?」と言いたいわけではなく(いえ、なんらかの形で食用に出来たらいいとは思うのですが)、これからそうした事態になった場合……日本としてはどのくらい食料を輸出したり出来るだろうか、と思ったりします。

「食料自給率40%の国が何言ってんだ☆」というお話かもしれませんが、とにかく他の国とも協力・連携して助けあうということは絶対出来るはずだと思っていて。。。

 そのですね、飽食の時代と言われて久しい現代ですが、いつか今の時代のような恵まれた時代は終わるのではないか……という気持ちは、個人的にずっと昔から持っていました。とはいえ、わたし自身、小さい時から今に至るまで、丸一日何も食べなかったということは一度もありませんでしたし、ゆえに「本当の飢えによる苦しみ」がわかっているわけではまったくありません。

 でも、小さい頃から時々、なんとなく想像することはありました。小学生の時、アフリカには毎日十分食べられず、飢えに苦しむ貧しい方がたくさんいる……みたいなニュースを聞いた時、日本では食堂などで食べ残す人などもたくさんいるのだから、せめてその余った分を「空間転移装置」(※ドラえもんの秘密道具的発想)のようなもので送れたらいいのにな……という、今考えてみると極めて幼い考えにはじまって、これもまた小学生の時、担任の先生がこんな話をしてくださったことがありました。

「おまえたちは恵まれている。今、おまえたちが飴玉を砂の中に落としたとしたらどうする?そのまま捨てて新しいものを食べるだろう。だが、戦後間もない子供というのはそうではなかった。飴玉を砂の中に落としたら、それを拾って綺麗に洗い、「あ~美味しい」と言ってありがたがって食べたことだろう」――この話は、その後もわたしにとって忘れられないものになりました。

 何故といって、本当に飢えたら実際自分もそうだろうなとリアルに想像できたからです。とはいえ、その後もどこかレストランなどに行って食事を残すまいと思いながらも残してしまったということはありましたし(人とのつきあいで、実際はお腹が満たされていても、さらに何か食べなきゃいけないということがあった)、冷蔵庫の奥で忘れていた何かを腐らせてしまったということも何度かあります。

 ですから、偉そうなことは何も言えないのですが、コロナ禍という大変な中にあるからこそ、助け合える余裕ののりしろみたいなものが少しくらいはあるなら、助けあえるといいなと思うんですよね。。。

 以前テレビで、確かアメリカか欧州にお住まいの男性だったと思うのですが、わたしたちと同じように生まれてから今に至るまで「飢えたことなど一度もない」方が、アフリカの明日食べるのにも困っている家庭へ伺い、一緒に暮らすという番組をやっていたことがあります。

 最初はパンを作るためのとうもろこしだったと思うのですが、とにかく家族全員が口に出来るものが少しくらいはあったものの……その後間もなく食料が何もなくなってしまうんですよね。そして、この御家庭では、「食料が何もなくなる」というのは、この日が始めてということではなく、これまでにも何度もあることだった。

 そして、子供が何人もいるこのご家庭のご主人がおっしゃるには、「食べ物がなくなると、とにかく食べ物のことしか考えられなくなる。そしてそんな状態がずっと続く」ということでした。また、このテレビの企画でやって来た男性は、そんな極限状態まで「飢える」のはこれが生まれて初めてのことで……ほんと、すごく大変そうでした「あれが食べたい、これが食べたい。自分の家に帰ればそれが食べられるのにといったことしか考えられない」みたいな意味のことをおっしゃっていたと思うのですが、相当昔に見たテレビなので、細かいところまでは覚えてなかったり(^^;)

 そしてこの二十台か三十台くらいに見える男性、仕事の用事でどうしても一度国へ帰らなきゃならないという事態になるのですが、テレビの企画で、「帰国中も何も食うなよ、おめえ☆」といった約束事があったりして。でもこの男性、帰国してからピザとか食べてるのがバレちゃうんですよ。でも、人間としてそんなの当たり前とも思いますよね?

 それから必要な仕事が済んでのち、「ピザ食いやがったな、おめえ!」といった出川哲郎さん的な一コマがあってから、再び彼はアフリカの飢えているご家庭のほうへ戻るのですが……この時、確か彼は泣いていたと思います。何故といって、彼自身はこの時、見つかったのはピザを食べているところだけでしたが、おそらく他にも何か食べていたと思うんですよね。でも、彼がピザその他を食べている間も、このご家庭の方というのは何ひとつ食べてはおらず、変わらず空腹に苦しんでいたからです。

 確かこのテレビ番組、ドキュメンタリー系の何かの賞を受けていたと思うのですが、受賞の理由が「番組の企画自体は単純で、昔からよくあるものかもしれない。だが、視聴者に訴えかける力が強く優れている」といった、何かそうしたことだったと思います。

 いえ、わたしも単純な人間なもので……海外のニワトリ工場、あるいはもっと身近なところで言うと、ケ○タッキーさんですが、あの鳥さんたちが処理されていく機械的工程を見ると、「自分は本当に罪深い人間だな」と感じます。それで、わたしが小学生くらいの時、このニワトリの処理工程があんまり機械的で、元は鳥さんだったものが色々な部位に次から次に分けられていくのを見て――その残酷さに驚くあまり、「もう二度ケ○タッキーは食べない!」と泣きそうになりながら思ったものですが、まあ、その後一月と経たないうちにそんな記憶も薄れ、某サンダースのいる店舗で買ったものを食べたりしているわけですよ(^^;)

 まあ、人間なんてそんなものでもあるわけですが、でもそうした色々な矛盾のあれこれを、人間というのはいつかどこかで支払う順番がやって来るのではないか……と、無意識のうちにも恐れる気持ちというのがわたしにはあります。そして、ここからはこじつけがましく聞こえるでしょうけれども、アフリカの飢えている方々が、本来はわたしたちが請け負うべきものを本人が悪いというわけでもないのに請負い、実は苦しまれているのではないかと、心密かに感じる部分があったりもして。。。

 この、本来はわたしたちが請け負わなければならない負債を代わりに請け負ってくださった方というのは、キリスト教徒にとってはもちろん十字架で一度死なれ、わたしたちのために血の代価を支払ってくださったイエスさまのことですが、イエスさまのおっしゃったあの御言葉――「貧しい人々は幸いです。何故なら、天国はこの人たちのものであるから」という言葉、これはこうしたこの世の原理を指してもいるのではないか、と思うことがあります。

 何故なら、本人が悪いわけでもないのにそうした事柄で負債を背負って苦しまれた方は、すでに天国へ行く権利を得ていると思うからです。もちろん、クリスチャンと呼ばれる人々は、イエスさまのことを信じてさえいたら天国へ行けるのですが……これはマザー・テレサも大体似た意味のことをおっしゃっていたと思うんですよね(^^;)

 わたしにとってはとりあえず祈ること、また何か寄付のためのお金をATMから振り込むとか、そんな程度のことしか出来ませんが、今後もこのサバクトビバッタの飢饉に関する件については注意を払っていきたいと、そんなふうに思っています。。。

 それではまた~!!





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