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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

人間はみんなマトリョーシカ。

2018年06月13日 | キリスト教


 可愛いですよね、マトリョーシカって♪


 >>胴体の部分で上下に分割でき、その中には一回り小さい人形が入っている。これが何回か繰り返され、人形の中からまた人形が出てくる入れ子構造になっている。入れ子にするため腕は無く、胴体とやや細い頭部からなる筒状の構造である。5~6重程度の多重式である場合が多い。

(ウィキペディア様よりm(_ _)m)


 そんで、今回のタイトルが「人間はみんなマトリョーシカ」なわけですけど……人間って最初は一番小さな小さな、これ以上はもう分割できないくらい小さなマトリョーシカだと思うんですよね。

 でも、何かの技能を手に入れたり、あるいは小学校→中学校→高校→大学→社会人……といったように、だんだんに何かの仮面を被っていくっていうんですかね(^^;)

 最後にはどこかの会社の社長とか部長とか、あるいは誰かの夫とか妻とかお父さんとかお母さんとか――人間として成長していくごとに被っていく何がしかの名称が順に増えていくというか。。。

 でも、結局生まれてくる時と死んでゆく時だけは、最初の一番小さなちっちゃなマトリョーシカに戻るものなのではないでしょうか。

 たとえば、「俺はとうとう~~になったぞ!」とか、「わたしはやっと~~になったわ!」とか思っていても……それをひょいっと取り除いてしまうと、一回り小さくなっていってしまう。あるいは病気や怪我などで、一度は手に入れた何がしかの身分や技術といったものを失くしてしまった場合、ひょいっとまた一つ小さくなってしまう。

 そんなふうにして、ひょいっ、ひょいっと順番に色々なものを失っていってしまった場合……人間ってほんっっとちっさ!!というか、小さくて無力なものなんだなあ~と思ったりします(^^;)

 それで、ここはキリスト教に関して何か書くというブログなので、最後に神さまのことなんですけど――神さまが人間のことを見る時って、たぶんこのもうこれ以上は分割できない人間としてのわたしたちを見ている……ということなんじゃないかなって思います。


 >>しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。
 わたしが選んだヤコブ、
 わたしの友、アブラハムのすえよ。

 わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、
 地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。
「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」

 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
 わたしはあなたを強め、あなたを助け、
 わたしの義の右の手で、あなたを守る。

 見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、
 恥を見、はずかしめを受け、
 あなたと争う者たちは、
 無いもののようになって滅びる。

 あなたと言い争いをする者を捜しても、
 あなたは見つけることはできず、
 あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。

 あなたの神、主であるわたしが、
 あなたの右の手を堅く握り、
「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」
 と言っているのだから。

 恐れるな。虫けらのヤコブ、
 イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。
 ――主の御告げ。――
 あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。

 見よ。わたしはあなたを
 鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。
 あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。
 丘をもみがらのようにする。

 あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、
 暴風がそれをまき散らす。
 あなたは主によって喜び、
 イスラエルの聖なる者によって誇る。

(イザヤ書、第41章8~16節)


 >>人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。
 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

(詩篇、第8編、4~5節)


 >>わたしの目には、あなたは高価で尊い。
 わたしはあなたを愛している。
 
(イザヤ書、第43章4節)


 わたしたちは神さまの目から見れば虫ケラのようなか弱い存在なのですが(あるいは、風が過ぎるとなくなる野の花とも^^;)、そんな虫ケラのようなわたしたちを神さまは高価で尊い者として見、イエスさまを与えてくださり、さらに御自身の御子であるこのイエスさまを信じる者はすべての罪を赦され、天国へ行ける者としてくださいました。

 このすべての罪を赦されるとは、イエスさまの十字架の血の贖いにより、一度も罪を犯したことのない状態にしていただけるということで、またその後犯してしまった罪についても、真に悔い改めるならすべて赦していただけます。

 人生で色々なことが仮に今うまくいっていても――マトリョーシカみたいにひょいっ、ひょいっと上から順に被っているものが取られていってしまうと……最後には人って本当に小さな小さな、か弱くて無力な存在になってしまいます。

 けれども神さまは、そんなわたしたちであればこそ、そんなふうに打ち砕かれて小さく弱くなり、謙遜で悔い改めた純粋な存在になった時こそ……「今こそわたしを信じなさい」と、そう招いてくださる方なのです。

 そして、聖書は「弱い者であったのに(神さまに聞き従うなら)強くされ」という人々の証しで満ちているわけですが、今の時代の人々もみな、聖霊を与えられ、真実神さまの御声に聞き従うなら、士師記のギデオンのように三百人で十三万五千の軍を打ち破るような、そのような者に変えられていくのだと思います。


 >>最も小さい者も氏族となり、
 最も弱い者も強国となる。
 時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。

(イザヤ書、第60章22節)


 それではまた~!!





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