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【磔刑】バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
ちょっと誰の言葉なのか引用が不正確なのですが(汗)、以前何かの本で>>「唯一恵みだけが誰のどんな心の状態の中にも入ることができる」みたいな文章を読んだことがあります。
つまり、わたしたちが毎日とっても忙しく、心の中がごっちゃごちゃ☆に散らかっていようとも、どんなに悲嘆に暮れていようとも、苦しみにのたうち回っていようとも……唯一恵みだけは「何も入る余地がない」と思われる場所にでも、絶対確実に入ることが出来るということですよね。
>>あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
(エペソ人への手紙、第2章8~10節)
>>ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
(ローマ人への手紙、第3章24節)
神さまの救いや恵みといったものは、無条件かつ無償で与えられるものです。
さらに、イエスさまの御前に跪いて祈る時――わたしの心をその時支配している苦しみ、悩み、悲しみといったものを差しだし、それを恵みによって変えていただくことが出来ます。
もちろん、かなりの長い間に渡って同じ苦しみ、悩み、悲しみを神さまの御前に差し出し続ける……ということももちろんあると思います。
わたしはカトリックではないのですが(汗)、マザー・テレサが聖餐(聖体拝領)の大切さについてお話されている文章を読んだ時、「ああ、本当に聖餐って大切だな」と心より思わされたものでした。
ノンクリスチャンの方でも、なんかキリスト教の人は礼拝でキリストの肉をパン、血をぶどう酒として感謝を覚え、それをいただいたりするらしい……というのはなんとなく聞いたことがあると思います。
>>また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。
「取って食べなさい。これはわたしのからだです」
また杯を取り、感謝を捧げて後、こう言って彼らにお与えになった。
「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」
そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。
(マタイの福音書、第26章21~30節)
聖餐というのはもちろん、イエスさまのことを主として受け容れ、告白している方しか受けられないものなのですが(また、それだけでなく洗礼も受けていないといただいてはいけないなど、同じキリスト教でも宗派によって異なります)、聖餐というのは本当に、神さまの一方的な愛と恵みの象徴という気がしてなりません。
何故といって、わたしたちは毎週礼拝で、ただ空の手によって主の御前に出、ただ一方的なイエスさまの愛と恵みによって主の血(ぶどう酒)とパン(肉)に与り、しかもそのことをまるで当たり前のように受け続けているのですから……。
つまり、日曜日に礼拝を守りながらも、心の中は神さま、イエスさまのことというよりも、その時自分が一番悩んでいること、つらいことや苦しいこと、悲しいことなどに思いが集中している――ということは、どんな方にもあると思います。
けれど、神さまの前にその苦しみや悩みや悲しみ、病気といった問題を捧げ、かわりに神さまの愛と恵みをいただく……わたし自身もこのことに気づくのに時間のかかることもありますが、大抵は日曜礼拝を守ると霊的に強められているのを感じますし、何よりわたしたちは神さまの御前に感謝や賛美を捧げる以外のものは持ち合わせていないと思います。
また、これは他の本ですが、>>「人が神に捧げることが出来るものは犠牲と忍従だけだ」といった文章を読んだことがあります。
そしてこれは確かに、悲しく痛い真実だと、その本を読んだ時に思いました。
何故なら、「神は何故このような苦しみ・悩み・悲しみをわたしに与えられるのだろう」というのは、人生で誰もが何度も経験することであり、これがその究極的な回答だとのことだったからです(^^;)
>>主はいつくしみ深い。
主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、
ひとり黙って座っているがよい。
口をちりにつけよ。
もしや希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頬を与え、
十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、
主は、その豊かな恵みによって、
あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。
(エレミヤの哀歌、第3章25~33節)
今日もわたしは空の手でもって、何も捧げるものなくして(あるいは感謝と賛美を携えて)主の前に出ていく……というのは、信仰の基本姿勢であり、それどころかわたしが苦しみや悲しみや痛みだけを主の御前にお捧げする時も、イエスさまはそれをお受け取りになり、かわりに愛と恵みを注いでくださいます。
こののち、聖霊さまによってすぐ心に神さまからの平安が与えられることもありますし、言うまでもなくそれもまた主の恵み、イエスさまからの恵みだと思います。
それではまた~!!
ちょっと誰の言葉なのか引用が不正確なのですが(汗)、以前何かの本で>>「唯一恵みだけが誰のどんな心の状態の中にも入ることができる」みたいな文章を読んだことがあります。
つまり、わたしたちが毎日とっても忙しく、心の中がごっちゃごちゃ☆に散らかっていようとも、どんなに悲嘆に暮れていようとも、苦しみにのたうち回っていようとも……唯一恵みだけは「何も入る余地がない」と思われる場所にでも、絶対確実に入ることが出来るということですよね。
>>あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
(エペソ人への手紙、第2章8~10節)
>>ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
(ローマ人への手紙、第3章24節)
神さまの救いや恵みといったものは、無条件かつ無償で与えられるものです。
さらに、イエスさまの御前に跪いて祈る時――わたしの心をその時支配している苦しみ、悩み、悲しみといったものを差しだし、それを恵みによって変えていただくことが出来ます。
もちろん、かなりの長い間に渡って同じ苦しみ、悩み、悲しみを神さまの御前に差し出し続ける……ということももちろんあると思います。
わたしはカトリックではないのですが(汗)、マザー・テレサが聖餐(聖体拝領)の大切さについてお話されている文章を読んだ時、「ああ、本当に聖餐って大切だな」と心より思わされたものでした。
ノンクリスチャンの方でも、なんかキリスト教の人は礼拝でキリストの肉をパン、血をぶどう酒として感謝を覚え、それをいただいたりするらしい……というのはなんとなく聞いたことがあると思います。
>>また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。
「取って食べなさい。これはわたしのからだです」
また杯を取り、感謝を捧げて後、こう言って彼らにお与えになった。
「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」
そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。
(マタイの福音書、第26章21~30節)
聖餐というのはもちろん、イエスさまのことを主として受け容れ、告白している方しか受けられないものなのですが(また、それだけでなく洗礼も受けていないといただいてはいけないなど、同じキリスト教でも宗派によって異なります)、聖餐というのは本当に、神さまの一方的な愛と恵みの象徴という気がしてなりません。
何故といって、わたしたちは毎週礼拝で、ただ空の手によって主の御前に出、ただ一方的なイエスさまの愛と恵みによって主の血(ぶどう酒)とパン(肉)に与り、しかもそのことをまるで当たり前のように受け続けているのですから……。
つまり、日曜日に礼拝を守りながらも、心の中は神さま、イエスさまのことというよりも、その時自分が一番悩んでいること、つらいことや苦しいこと、悲しいことなどに思いが集中している――ということは、どんな方にもあると思います。
けれど、神さまの前にその苦しみや悩みや悲しみ、病気といった問題を捧げ、かわりに神さまの愛と恵みをいただく……わたし自身もこのことに気づくのに時間のかかることもありますが、大抵は日曜礼拝を守ると霊的に強められているのを感じますし、何よりわたしたちは神さまの御前に感謝や賛美を捧げる以外のものは持ち合わせていないと思います。
また、これは他の本ですが、>>「人が神に捧げることが出来るものは犠牲と忍従だけだ」といった文章を読んだことがあります。
そしてこれは確かに、悲しく痛い真実だと、その本を読んだ時に思いました。
何故なら、「神は何故このような苦しみ・悩み・悲しみをわたしに与えられるのだろう」というのは、人生で誰もが何度も経験することであり、これがその究極的な回答だとのことだったからです(^^;)
>>主はいつくしみ深い。
主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、
ひとり黙って座っているがよい。
口をちりにつけよ。
もしや希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頬を与え、
十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、
主は、その豊かな恵みによって、
あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。
(エレミヤの哀歌、第3章25~33節)
今日もわたしは空の手でもって、何も捧げるものなくして(あるいは感謝と賛美を携えて)主の前に出ていく……というのは、信仰の基本姿勢であり、それどころかわたしが苦しみや悲しみや痛みだけを主の御前にお捧げする時も、イエスさまはそれをお受け取りになり、かわりに愛と恵みを注いでくださいます。
こののち、聖霊さまによってすぐ心に神さまからの平安が与えられることもありますし、言うまでもなくそれもまた主の恵み、イエスさまからの恵みだと思います。
それではまた~!!
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