神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神を喜ぶことは、あなたがたの力だから。-【2】-

2015年11月23日 | キリスト教
【トレドの背景と十字架のキリスト】エル・グレコ


 随分前のことになるのですが、とある教会へ一時期通っていた時――その教会に置いてある聖書の中に、ある書き込みがしてあるのを見つけました。おそらく、その聖書は信者の方が寄付されたものだったのかなと思うのですが、確かヨブ記のところだったでしょうか。

<真面目に会社に仕えてきたのに>とか<その上神は私をガンにした>といった言葉が書き込まれていたと記憶しています。正確な言い回しのほうはもう覚えていないのですが、大体の意味としては、「真面目に一生懸命働いてきただけなのに」、「それだってとても大変なことだった」、「その上我が身を病魔が蝕む」……といったことだったと思います。

 これはわたし個人の勝手な想像ですが、この方は相当熱心なキリスト教信者の方だったのではないかと思うんですよね。月曜日から金曜日までか、あるいは月曜日から土曜日まで働いて、日曜日は可能な限り教会で日曜礼拝を守るといった生活を、定年近くか定年過ぎまで真面目に続けてこられたのだろうと思います。

 正直なところをいって、これと似た形で信仰がゆきづまるということはありえると思うんですよね。もちろんこの方は、このあときっと何かの形でこの信仰の危機を乗り越えられたのではないかと思うのですが、仮にキリスト教徒、クリスチャンであっても神さまを目の前にして目が暗くなり、自殺されることもあると聞いたことがあります。

 何故こうしたことが起きる・許されるかと言いますと、わたし個人は暗闇の深遠のせいではないかという気がします。ようするに、神さまは光あふれる天上の世界におられるのだけれども、その間に乗り越えがたい暗闇の深遠が存在しており、自分はそれを越えて向こう側へは決して行けないように思えるからではないでしょうか。


 >>今、雨雲の中に輝いている光を、見ることはできない。
 しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。

 北から黄金の輝きが現われ、
 神の回りには恐るべき尊厳がある。

(ヨブ記、第37章21~22節)


 わたしたちと神さまの間を遮る、真っ黒い雨雲――もしここだけを見ていたとすれば、どんな人にも絶望しかありません。あるいは<苦しみ連山>とでも呼びたいような、人生上の悩みや苦しみや問題だけを見ていたとすれば、そこを越えるための体力・精神力・忍耐力のことだけを思い、人は死にたくなるのではないでしょうか。

 言い換えれば、あの<苦しみ連山>を越える大変さ、つらさを経験するよりも死んだほうがましだ、といったように。

 けれどその先にある神さまの御臨在、黄金の光の輝きを経験するためには、実はほんの少し視点を変えればいいだけなのです。問題そのものだけを見ていると緊張し、鼓動が速くなって息も絶え絶えといった精神状態になりますが、そこからちょっと視点をずらして神さまのことを仰ぎ見ると、その先に黄金の輝きがあって、神さまにはすべての問題を打ち砕く力のあることがわかります。

 自分の力、あるいは自分の肉の力に頼ると苦しいですが、イエスさまが>>すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい(マタイの福音書、第11章28節)とおっしゃっておられるように、言ってみれば神さまに問題のすべてを丸投げし、すべてを委ねて、自分では何も努力しない……というのは言いすぎかもしれませんが、コツとしては基本的にそういうことだと思うんですよね(^^;)

 自分の力でやろうとするから苦しくなる。

 っていう側面が、間違いなくどこかにあると思うので、とにかく神さまにやってもらう。信仰の原理として、毎日必ずお祈りするとか、聖書を読むですとか、日曜礼拝を守る、十分の一献金をする、何か罪を犯していることで、悔い改めていないことがあったら悔い改める……など、自分で何もしないと言っても、そこは信仰が適用されなくては何も起こりませんので、信仰の基本原理を適用しつつ、神さまに祈り、祈りの中で自分が一番何に困っているのかを告白し、次には神さまから言葉を受けていきます。

 そして、神さまから受けたと感じる言葉があったら、それを実際に実行します。

 これは祈っている時に神さまから「はっきりそう言われた」と感じることもあれば、「そう言われた気がする」というくらいの感じのこともあるし、聖書を読んでいる時に御言葉を語られることもあれば、その日読んだ聖書の御言葉の箇所がその答えだった……ということもあります。

 つまり、前回の「放蕩息子の信仰」にも通じることなのですが、同じクリスチャンでも、人生上のあるゆる問題・不満を神にあって喜びつつ、基本的信仰原理を適用させてクリスチャンライフを送るのではなく、ノンクリスチャンと同じように毎日不満に取り囲まれ、問題があれば神さまのところへ持っていくのではなく、自分の力で解決しようとする……という方は案外多いと聞いています。

 もちろん、クリスチャンの方で自分の問題について毎日祈っているのに神さまは聞いてくださらないという方もおられるでしょうし、日曜日には礼拝へ行っているし、献金もしている、ほんの些細な罪でも神さまに告白するようにしている……だが病気になった、妻が交通事故に遭った、息子との間に問題があり、彼は離れ去っていった――といった、自分の力ではどうすることも出来ない問題が、人生上には必ず起こってくるものだと思います。

 それでは、次回からはマーリン・キャロザースさんの御著書の中から、そうした事柄に関する解決の例をいくつか見ていきたいと思いますm(_ _)m

 ではまた~!!





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