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【荒地で魔女に出会うバンクォーとマクベス】ヨハン・ハインリヒ・フュースリー
マクベスとバンクォーの元に現れた魔女たちの目的――それはただ、マクベスの魂を地獄へ追いやるというそれだけではありませんでした。
作中にはそれほど詳しく書かれていないように感じるのですが、マクベスが王になったことでスコットランドの地は荒廃し、国民も暴君の圧政に苦しんでいる……といったように読める箇所があり、魔女たちはそれこそ狂喜乱舞して踊り狂っていたことでしょう。
ここからも彼女たちがギリシャ神話的魔女というよりも、そうした仮の衣を纏ったキリスト教言うところの悪魔(サタン)の手先的存在であることがわかるのですが、この魔女たちの狂喜乱舞も、そろそろ終わりを迎える頃合となりました。
ダンカン王の息子、マルコムがイングランド王の協力を得て、一万の兵士を率い、マクベスのいるダンシネイン城にまで迫りつつあったからです。自分の父親を殺した逆賊を倒すとの大義名分が当然マルコムにはあり、それのみならずマクベスは王としてスコットランドを治めるに相応しからぬ暴君だったのですから、もうこのマルコムが正義の旗印のもと、悪の君主マクベスを倒すのは時間の問題と思われました。
ところがこのダンカン王の息子マルコム、スコットランドへ攻め入る前に、マクダフを相手に少しばかりおかしなことを言っています。引用が長くなってしまうので、大体のところ短くまとめると、「この体にはありとあらゆる悪の芽が植えつけられている」、「それがひとたび花を開けば、どすぐろいマクベスの面が、むしろ雪のように白く見えてこよう」と。
その他、淫欲や物欲が物凄く、その他自分には徳がない、とも。「王にふさわしいもろもろの美徳、すなわち、公正、真実、節制、信念、寛大、忍耐、慈悲、謙譲、敬虔、我慢、勇気、不屈の精神」、こうしたものが自分には欠けているのだ、と言うのですね。そしてマクダフに問います。自分はそのような男だが、このような人間がマクベスの次に王になることに対し、どう思うか、といったように。
マクダフは答えます。「国を治める資格どころか、そんな男は生きている値打ちもない!」と。すると、マルコムはマクダフに対し、彼の忠誠心を試すためにそのようなことを口にしたと言い、本当は自分はそのような人間ではないと打ち明けます。「まだ女も知らぬ、偽誓したこともない、自分のものさえ、めったにほしいとは思わぬ、もちろん約束を破ったことなど一度もない、相手が悪魔でも裏切る気にはなれぬ、誠実を命同様愛している、心にもない偽りを口にしたのは今日がはじめてだ」と……。
これ、ちょっとおかしいですよね(^^;)
マルコムが最初に口にした淫欲・物欲限りないこの身の上――といった言葉もかなり極端なものでしたが、マクダフに「そんな男は生きている値打ちもない!」と否定されるなり、まるで手のひらを返したように、正反対のことを言うマルコム。その彼に対し、「希望と絶望とが同時にやって来て、どうしてよいのか」と答えるマクダフ(無理もないというかなんというか・笑)。
ここにも『マクベス』における二元論的支配のはっきりとした対比が感じられるのですが、シェイクスピアは天国・地獄といったことの対比の中に、どんなメッセージをこめたかったのでしょうか?
正直なところをいって、ここのところはわたしにもわからないのですが、ただ一クリスチャンとしてはこう思うのです。まず、この第四幕第三場のマルコムとマクダフのやりとりの中において、とりあえずマルコムは嘘をついています。特に、「自分のものさえ滅多に欲しいとも思わぬ、約束を破ったことなど一度もない、相手が悪魔でも裏切る気にはなれぬ」というところ、また「心にもない偽りを今日まで一度も口にしたことがない」というのは――ようするに生まれてから一度も嘘をついたことがないということですよね?
つまり、そんな人間、この世に存在するはずがないのです(もちろん、イエスさまは別としても・笑)
また、魔女の言った「きれいは穢い、穢いはきれい」、マクベスの登場時のセリフ「こんないやな、めでたい日もない」といったアイロニーに溢れた言い回しからわたしが聖書の言葉の中で連想するのは、「(あなた方は)蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」(マタイの福音書、第10章16節)という言葉だったでしょうか。つまり、この世と呼ばれる場所でキリスト教信者が生きる時、鳩のように善良で素直なだけであったとしたら、この世一般のずる賢い人々に騙されたりなんだり、ひどい目にばかり合わされるということになるでしょう。けれど、この世の荒波を乗り切って神さまの使命に生きるためには、鳩のように素直で純真な信仰を守りつつ、この世の人々に対する場合においては、蛇のように賢く世渡りしていく必要があるということですよね。
つまり、天国に行ける資格のある人間というのは――マルコムの言ったような、「一度も偽誓したことなく、物欲もなく、約束を破らず、相手がどのような人間でも裏切りを働かず、嘘をつかず、さらには女性に淫らな思いを抱くなど、もっての他だ」とし、そのようなことを堅く守っている人、ということなのではないでしょうか。もちろん、こんな人は地上にいるはずがないのですが、言ってみればこれは聖書いうところの律法であるわけです。
けれど、イエスさまが地上に来られて、この律法を廃棄されて以降、彼を信じる者たちには悔い改めた罪についてはすべて赦され、天国へ行くことの出来る恵みが与えられました。つまり、ある意味において人間に与えられているチャンスは平等なわけですよね。マクベスにもマクダフにもマルコムにも与えられている条件は基本的には同じものだった……とはいえないでしょうか。
マルコムが、「自分にはありとあらゆる悪の根が植えつけられている」というこの原罪に通じる人の罪性といったものは、わたしたち人間の力によってではどうにも出来ません。けれども、神さまは人間に対する深い哀れみから、そのような罪深いわたしたちを惨めな状態から救うため、御自身のひとり子であるイエス・キリストを地上へ遣わされました。
はっきりとした詳しいことは書かれていなくても、このあとイングランドの敬虔な王さま、エドワード懺悔王のことが出てくることからみても、マルコムもマクダフも、またマクベスも洗礼を受けたり教会へ行くといったことを当然しているキリスト教徒だったとみていいでしょう。
けれど、この中でマクベスは「イエス・キリストを信じる者には、あらゆる罪が赦され、天国へ行くことが出来る」という教えを最後まで信じ、守りきることが出来ませんでした。マルコムは確かに嘘をついてはいるにしても、「自分はなんという罪深い人間なのだ」という自身に対する<罪深さ>の自覚がある分、彼はスコットランドの王さまになったあともマクベスように天国の道から脱落するということはなさそうです。また、マクダフも妻子をスコットランドへ置いてきたことが、彼らの死へと繋がったことから――こののち、生涯を悔い改めて神の道から外れず生きるのではないかという気がします。ただ、マクベスひとりだけが……何故天国へと続く道から脱落し、さらには悔い改めることさえなく、さらにどんどんと悪の道へ進んでいってしまったのでしょうか。
日本人が普通に『マクベス』を読んだ場合、ここのところはあまりピンと来ないと思うのですが、クリスチャンと呼ばれる人々は神さまや天使を信じているのと同じく、悪魔や悪霊といった存在を信じています。日本人的感覚でいくと「悪魔(サタン)?悪霊??ぷふふっ☆
」という感じだったり、「漫画や映画や小説じゃないんだからさあ☆
」といった感じかもしれません。
けれど、こうした悪魔(サタン)、悪霊の力が働くと、まず、霊的に視力が暗くなります。たとえば、「普通に考えれば」、「常識的に考えれば誰にでもわかること」がわからなくなったり、自分の心の欲望の弱い部分に悪霊的力が働くことにより、そのことしか考えられなくなったり、異様に嫉妬深くなったり、攻撃的になったりするということがあります。
聖書の中でイエスさまは、こうした悪霊に憑かれた人々をそうした霊の患いから幾度となく繰り返し解放されておられますが、マクベスもまたこのような霊的に盲目な状態へと陥り、今一度神さまに向かって赦しを乞おうにも、「ここまで落ちてしまったからには、行き着くところまで行くしかないのだ、この呪われた我が身は」といった思いだったのかもしれません。
作中の中で、マクベスのまわりにはもはやろくでもない人々しかおらず、そばにいる廷臣たちにしても、何がしかの理由によってやむをえずマクベスに仕えている……といったところであり、マクベス夫人を見ていた侍医に至っては、「このわしはダンシネインと手を切りたいくらいじゃ、それが出来たら、何をくれると言おうと、二度とこんなところへ来はしないぞ」とすら言っています。このことから見ても、ダンシネインの城にはこの時、魔女たちの送りこんだ悪霊的存在が多数入りこんでいただろうことがわかるのです。
もちろん、こうした読み方をするのはクリスチャンだけですから、そうしたところが何気なくでも読みとれないと、「マクベスねえ。なんでこのお話が長く傑作と呼ばれ、何度も舞台化されて演じられるのか、さっぱりわからんわい☆
」という感じになるかもしれません。
けれど、キリスト教徒、クリスチャンにとっては、マクベスの身に起きた悲劇というのは、明日は我が身とも思えるほどに、「一歩間違えば我々だってそうなるだろう」といった共感性があるんですよね(^^;)今は心正しく神を信じ、自分なりに教会の奉仕活動であるとかボランティアなどにも勤しみ、収入の十分の一を献金もし――といった生活を送っていたとしても、何がしかの霊的存在に心の底を覗きこまれ、悪魔(サタン)、悪霊といった存在を通して試みを受ける時、信仰から転んでしまうということが本当にあるのです。
ですから、『マクベス』の映画や舞台を見るなり、シェイクスピアの原作を読むなりしたあとに、「おお、マクベス!おお、マクベス!!」となるのがクリスチャンであり、シェイクスピアがこの作品を通して訴えかけたかったことというのはここにこそあるのではないかというのが、わたし個人の考えです。
つまり、人は誰しも罪深く、欲望に惑わされやすい弱い身であり、イエス・キリストを信じたあとでさえも……「さて、神さまは一体どこまでなら「この世的生き方」を許されるものだろう
」と思ったりするものなんですよね(^^;)マクベスがスコットランドの王位を欲したこと自体は、おそらく悪いことではなかったと思います。わたしたちも、健全な信仰心を持つ一方で、自分のこの世におけるビジネスが成功して欲しいといったことは、実際よく思うし、「第一、銀行口座に金がなかったら、妻子を養っていけないんだぜ、神さま?
」といったように思ったりもするものですよね。けれど、「神の国と神の義とを第一とせよ。さすればすべて与えられん」と聖書にあるように、この部分を取り違えてしまうと――自分の欲望が過度に強いものであった場合、それだから神が罰を与えたのだというよりも、自業自得の罪の道へと嵌まりこみ、「神さまー、どうかこの罪の泥沼の中からたしけてえ~!!
」といったようになるというのが、我々人間の悲しい性というものなのではないでしょうか。
そしてシェイクスピアはおそらく、マクベスのような形で(ある意味自業自得の)罪の中に落ちてしまった者をこそ、神さまは救ってくださるべきではないか……また、それともやはり、このような惨めな男にはもはや神の救いはないのかとの、永久に人間の頭では解決のでない問題を、わたしたちに今も『マクベス』を通し問いかけ続けている――そんな気がするのです。
では、次回はマクベスの最期に至るまでの過程のことについて、何か書いてみたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
マクベスとバンクォーの元に現れた魔女たちの目的――それはただ、マクベスの魂を地獄へ追いやるというそれだけではありませんでした。
作中にはそれほど詳しく書かれていないように感じるのですが、マクベスが王になったことでスコットランドの地は荒廃し、国民も暴君の圧政に苦しんでいる……といったように読める箇所があり、魔女たちはそれこそ狂喜乱舞して踊り狂っていたことでしょう。
ここからも彼女たちがギリシャ神話的魔女というよりも、そうした仮の衣を纏ったキリスト教言うところの悪魔(サタン)の手先的存在であることがわかるのですが、この魔女たちの狂喜乱舞も、そろそろ終わりを迎える頃合となりました。
ダンカン王の息子、マルコムがイングランド王の協力を得て、一万の兵士を率い、マクベスのいるダンシネイン城にまで迫りつつあったからです。自分の父親を殺した逆賊を倒すとの大義名分が当然マルコムにはあり、それのみならずマクベスは王としてスコットランドを治めるに相応しからぬ暴君だったのですから、もうこのマルコムが正義の旗印のもと、悪の君主マクベスを倒すのは時間の問題と思われました。
ところがこのダンカン王の息子マルコム、スコットランドへ攻め入る前に、マクダフを相手に少しばかりおかしなことを言っています。引用が長くなってしまうので、大体のところ短くまとめると、「この体にはありとあらゆる悪の芽が植えつけられている」、「それがひとたび花を開けば、どすぐろいマクベスの面が、むしろ雪のように白く見えてこよう」と。
その他、淫欲や物欲が物凄く、その他自分には徳がない、とも。「王にふさわしいもろもろの美徳、すなわち、公正、真実、節制、信念、寛大、忍耐、慈悲、謙譲、敬虔、我慢、勇気、不屈の精神」、こうしたものが自分には欠けているのだ、と言うのですね。そしてマクダフに問います。自分はそのような男だが、このような人間がマクベスの次に王になることに対し、どう思うか、といったように。
マクダフは答えます。「国を治める資格どころか、そんな男は生きている値打ちもない!」と。すると、マルコムはマクダフに対し、彼の忠誠心を試すためにそのようなことを口にしたと言い、本当は自分はそのような人間ではないと打ち明けます。「まだ女も知らぬ、偽誓したこともない、自分のものさえ、めったにほしいとは思わぬ、もちろん約束を破ったことなど一度もない、相手が悪魔でも裏切る気にはなれぬ、誠実を命同様愛している、心にもない偽りを口にしたのは今日がはじめてだ」と……。
これ、ちょっとおかしいですよね(^^;)
マルコムが最初に口にした淫欲・物欲限りないこの身の上――といった言葉もかなり極端なものでしたが、マクダフに「そんな男は生きている値打ちもない!」と否定されるなり、まるで手のひらを返したように、正反対のことを言うマルコム。その彼に対し、「希望と絶望とが同時にやって来て、どうしてよいのか」と答えるマクダフ(無理もないというかなんというか・笑)。
ここにも『マクベス』における二元論的支配のはっきりとした対比が感じられるのですが、シェイクスピアは天国・地獄といったことの対比の中に、どんなメッセージをこめたかったのでしょうか?
正直なところをいって、ここのところはわたしにもわからないのですが、ただ一クリスチャンとしてはこう思うのです。まず、この第四幕第三場のマルコムとマクダフのやりとりの中において、とりあえずマルコムは嘘をついています。特に、「自分のものさえ滅多に欲しいとも思わぬ、約束を破ったことなど一度もない、相手が悪魔でも裏切る気にはなれぬ」というところ、また「心にもない偽りを今日まで一度も口にしたことがない」というのは――ようするに生まれてから一度も嘘をついたことがないということですよね?
つまり、そんな人間、この世に存在するはずがないのです(もちろん、イエスさまは別としても・笑)
また、魔女の言った「きれいは穢い、穢いはきれい」、マクベスの登場時のセリフ「こんないやな、めでたい日もない」といったアイロニーに溢れた言い回しからわたしが聖書の言葉の中で連想するのは、「(あなた方は)蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」(マタイの福音書、第10章16節)という言葉だったでしょうか。つまり、この世と呼ばれる場所でキリスト教信者が生きる時、鳩のように善良で素直なだけであったとしたら、この世一般のずる賢い人々に騙されたりなんだり、ひどい目にばかり合わされるということになるでしょう。けれど、この世の荒波を乗り切って神さまの使命に生きるためには、鳩のように素直で純真な信仰を守りつつ、この世の人々に対する場合においては、蛇のように賢く世渡りしていく必要があるということですよね。
つまり、天国に行ける資格のある人間というのは――マルコムの言ったような、「一度も偽誓したことなく、物欲もなく、約束を破らず、相手がどのような人間でも裏切りを働かず、嘘をつかず、さらには女性に淫らな思いを抱くなど、もっての他だ」とし、そのようなことを堅く守っている人、ということなのではないでしょうか。もちろん、こんな人は地上にいるはずがないのですが、言ってみればこれは聖書いうところの律法であるわけです。
けれど、イエスさまが地上に来られて、この律法を廃棄されて以降、彼を信じる者たちには悔い改めた罪についてはすべて赦され、天国へ行くことの出来る恵みが与えられました。つまり、ある意味において人間に与えられているチャンスは平等なわけですよね。マクベスにもマクダフにもマルコムにも与えられている条件は基本的には同じものだった……とはいえないでしょうか。
マルコムが、「自分にはありとあらゆる悪の根が植えつけられている」というこの原罪に通じる人の罪性といったものは、わたしたち人間の力によってではどうにも出来ません。けれども、神さまは人間に対する深い哀れみから、そのような罪深いわたしたちを惨めな状態から救うため、御自身のひとり子であるイエス・キリストを地上へ遣わされました。
はっきりとした詳しいことは書かれていなくても、このあとイングランドの敬虔な王さま、エドワード懺悔王のことが出てくることからみても、マルコムもマクダフも、またマクベスも洗礼を受けたり教会へ行くといったことを当然しているキリスト教徒だったとみていいでしょう。
けれど、この中でマクベスは「イエス・キリストを信じる者には、あらゆる罪が赦され、天国へ行くことが出来る」という教えを最後まで信じ、守りきることが出来ませんでした。マルコムは確かに嘘をついてはいるにしても、「自分はなんという罪深い人間なのだ」という自身に対する<罪深さ>の自覚がある分、彼はスコットランドの王さまになったあともマクベスように天国の道から脱落するということはなさそうです。また、マクダフも妻子をスコットランドへ置いてきたことが、彼らの死へと繋がったことから――こののち、生涯を悔い改めて神の道から外れず生きるのではないかという気がします。ただ、マクベスひとりだけが……何故天国へと続く道から脱落し、さらには悔い改めることさえなく、さらにどんどんと悪の道へ進んでいってしまったのでしょうか。
日本人が普通に『マクベス』を読んだ場合、ここのところはあまりピンと来ないと思うのですが、クリスチャンと呼ばれる人々は神さまや天使を信じているのと同じく、悪魔や悪霊といった存在を信じています。日本人的感覚でいくと「悪魔(サタン)?悪霊??ぷふふっ☆
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けれど、こうした悪魔(サタン)、悪霊の力が働くと、まず、霊的に視力が暗くなります。たとえば、「普通に考えれば」、「常識的に考えれば誰にでもわかること」がわからなくなったり、自分の心の欲望の弱い部分に悪霊的力が働くことにより、そのことしか考えられなくなったり、異様に嫉妬深くなったり、攻撃的になったりするということがあります。
聖書の中でイエスさまは、こうした悪霊に憑かれた人々をそうした霊の患いから幾度となく繰り返し解放されておられますが、マクベスもまたこのような霊的に盲目な状態へと陥り、今一度神さまに向かって赦しを乞おうにも、「ここまで落ちてしまったからには、行き着くところまで行くしかないのだ、この呪われた我が身は」といった思いだったのかもしれません。
作中の中で、マクベスのまわりにはもはやろくでもない人々しかおらず、そばにいる廷臣たちにしても、何がしかの理由によってやむをえずマクベスに仕えている……といったところであり、マクベス夫人を見ていた侍医に至っては、「このわしはダンシネインと手を切りたいくらいじゃ、それが出来たら、何をくれると言おうと、二度とこんなところへ来はしないぞ」とすら言っています。このことから見ても、ダンシネインの城にはこの時、魔女たちの送りこんだ悪霊的存在が多数入りこんでいただろうことがわかるのです。
もちろん、こうした読み方をするのはクリスチャンだけですから、そうしたところが何気なくでも読みとれないと、「マクベスねえ。なんでこのお話が長く傑作と呼ばれ、何度も舞台化されて演じられるのか、さっぱりわからんわい☆
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けれど、キリスト教徒、クリスチャンにとっては、マクベスの身に起きた悲劇というのは、明日は我が身とも思えるほどに、「一歩間違えば我々だってそうなるだろう」といった共感性があるんですよね(^^;)今は心正しく神を信じ、自分なりに教会の奉仕活動であるとかボランティアなどにも勤しみ、収入の十分の一を献金もし――といった生活を送っていたとしても、何がしかの霊的存在に心の底を覗きこまれ、悪魔(サタン)、悪霊といった存在を通して試みを受ける時、信仰から転んでしまうということが本当にあるのです。
ですから、『マクベス』の映画や舞台を見るなり、シェイクスピアの原作を読むなりしたあとに、「おお、マクベス!おお、マクベス!!」となるのがクリスチャンであり、シェイクスピアがこの作品を通して訴えかけたかったことというのはここにこそあるのではないかというのが、わたし個人の考えです。
つまり、人は誰しも罪深く、欲望に惑わされやすい弱い身であり、イエス・キリストを信じたあとでさえも……「さて、神さまは一体どこまでなら「この世的生き方」を許されるものだろう
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そしてシェイクスピアはおそらく、マクベスのような形で(ある意味自業自得の)罪の中に落ちてしまった者をこそ、神さまは救ってくださるべきではないか……また、それともやはり、このような惨めな男にはもはや神の救いはないのかとの、永久に人間の頭では解決のでない問題を、わたしたちに今も『マクベス』を通し問いかけ続けている――そんな気がするのです。
では、次回はマクベスの最期に至るまでの過程のことについて、何か書いてみたいと思いますm(_ _)m
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