神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

最初の一歩。

2020年10月01日 | キリスト教

 前回の記事で書いたとおり、わたしがイエスさまを信じる前の死生観でいくと、人生の道のりの最後は生まれてくる前にいたであろう、存在の暗闇のような場所へ、死後にも戻っていくのだろう……といったことでした。

 でも、だからといって、人生の始まりと終わりが暗闇に包まれていて、その間の実人生が虚しいとか、そんなふうにはまったく思いませんでした。なんと言いますか、その方がクリスチャンでなかったとしても、人生の始まり、人が生まれてくる前というのは光に溢れた世界にいて、人は死後、再びそのような天国へと戻っていくのだ……という死生観の方もたくさんいらっしゃると思うんですよね(^^;)

 ただ、わたしの場合、たぶん性格が暗いんだと思います。光と暗闇とどちらが好きかと言われると、もともとこの暗闇ということが実は結構好きだったというか。あと、わたしと同じ傾向にある方というのも案外いらっしゃまして、小説・漫画・ゲームの世界等においても、常に主人公サイドの光の側でなく、闇の皇帝だの、そっち系の影のあるキャラのほうを絶対的に好きになる……といった方もまた、たくさんいらっしゃるものなんですよね(笑)。

 それはさておき、人生の階段を一歩一歩進んでいくとして――その最後に何が自分を待っているか、といったことを、考えつつ日々を過ごす、といった方というのは、実際のところそう多くはないのではないでしょうか。。。

 もちろん、時々はふとそんなことを考える、といったことは誰しもあるにしても、明日・明後日・明々後日……と、とりあえず好むと好まざるとに関わらず、やらなくてはいけないことって、多くの方にとってある一定量あるものだと思うんですよね

 先日、とある方に「こんなつまらなくて面白くもない毎日がこれからも続いていくのだ」といったように溜息とともに言われたのですが、こうしたことって、案外結構あるものなのかな、とふと思ったりしました。

 そのですね、外面的に見た場合、その方は結婚しておられて、お子さんもふたりいて、たぶん幸せそうに見えるのではないかと思います。ところが、旦那さんは仕事から疲れて帰ってきて、家のことは何もしないし、子供さんにはふたりとも、それぞれ問題があって、何ひとつとして自分の言うとおり、思うとおりにならない……自分なんか、料理も掃除も洗濯も、家のことを全部やってなおかつ、パートで外に出て働いてさえいるのに、ということだったんですよね。

 で、このお話を聞いていたもうひとりの方が、あとからこう言われていました。「みんな、そんなもんだよ」と。「家庭に不満を持ってない人なんかいないのが当たり前、旦那と離婚することを考えたりしたことなんか一度もないっていう人のほうが少ないくらいだろう」……そして、この方がおっしゃることには、「でも、そのうち何年かしてからでも、人生にいい芽というのは必ず出てくるものだ」と……。

 そのですね、その方が子供さんのどんなことで悩んでいるかを聞くと、実際にはわたし的には「それはつらいだろうな」、「苦しいな」とその方が感じているのも、物凄くわかる気がしました。そして、子供さんがそうした状態でも、旦那さんはあまりいい相談相手でもなく、家事のことなどに関して感謝しているといった雰囲気はまるでない上、そんなこともすべて当たり前といった態度で……「あーもう、嫌になっちゃう」といった愚痴にこの方が支配されていても、ある意味当然だと思いました。

 それで、わたし的には「そんな時こそ、マーリンさんの感謝と賛美だ!!」とか、「イエスさまのことを信じよう!そしたらきっとあなたの人生も家庭も変わってきますよ!!」なんて突然言ったりすることも出来ず……でも、心の中ではやっぱり、思ってしまう部分があるんですよね(^^;)

 その方のなんとも言えない状況、わたしと同じく、その方の話を聞いてた方の意見も、すごく正しい人生の結論部分でもあるわけです。でも、わたし自身も悩みの内容はまったく違っても、人生の苦しみの中にある時には、「この状況は一体いつまで続くのだろう」という、この先もかなり長い間そのような状況が続くのであれば死んでしまいたいと思っていたわけですし、その「先の見通せない」ということが、一番不安でもあるわけですよね。。。

 そんな中、とにかく朝・昼・晩と、自分に一切感謝の念を持っていないように表面上は見える家族のために料理したり、その他なんだかんだと家庭のために労働し、また毎日出勤時間が来れば、溜息とともに仕事のほうへ行くという毎日……「それはすごく苦しいだろうな」と思うだけに、まったく同じことをその方に言うことは出来なくても――それでも自分的には、「考え方を変えることによって、感じ方を変えること」というのは、もしかしたら出来るのかもしれない、とはやっぱり少しだけ、思ったりするわけです(^^;)

 そのですね、この方とまったく同じ内容・質の悩みでなくても、「こんなつまらなくて、面白くもない毎日がこれからも続いていくのだ」といった物思いによって夜眠り、再び朝が来る……もっと言うなら、夜眠る時、「明日の朝、もう目覚めたくない。そのまま目覚めることなく寝ている間にぽっくり逝けたらどんなにいいか」と思いつつ、「チェッ。今日もまた朝のやつが来やがったぜ」といったようにまた、体を起こす――といった方というのは、日本全体、世界各地において、本当にたくさんいらっしゃるのではないかと思います。

 また、そうした方々の心がパッと明るくなるには何が必要だろう……と考えた場合、わたしが思いますのに、「宝くじで1億……いや、それが無理なら1千万、いやいやそこまで贅沢は言わないまでも100万円でいい。そのくらいの自分の自由に出来るお金があったら、わたしのこの暗い心も明るくなるだろうに」というのが、その方にとっての特効薬に近いものではないかと思います。

 あるいは、離婚をほのめかしたら、旦那さんが突然家事を手伝ってくれるようになったとか、あるいは娘さんと息子さんが何故か突然お母さんに感謝しだし、その方が安心できるような人生を歩んでいってくれるとか……でも現状、宝くじは当たりもしなければ、こうしたことというのも、まったく起きそうにない。

 そのー、非常に言いにくいことではあるのですけれども、それでも、「わたしは億万長者だ」と、仮に借金が100万円あっても、考えることというのは可能なのではないかと、わたし的にはそう思うんですよね(^^;)

 実際には、宝くじなんて買っても、100万どころか、300円くらいしか当たったことない……といった感じでも、「わたしは億万長者だ」と言えるくらい、精神的・内的・心的・霊的・魂的に充実する、といったことは、何かの形で出来るのではないか、と言いますか。

 一応ここはキリスト教について何か書く、といったブログですので、「イエスさまのことを信じれば、あなたの人生はきっと変わる!」的に書くべきとは思うのですが(汗)、まあ一般論で言ったとしますと、何か、ほんの短い間だけでも没頭できる趣味を持つなど、自分を取り囲む問題の一切を一時的にでも忘れられる「何か」を持つだけでも、随分違ってくるかもしれない……ということなんだと思います。

 あと、他のやりたくないけどやらなきゃならない系のことについては――おそらく、大抵の方は諦めていることのほうが多いのではないでしょうか。ただ、人が嫌なことに取り組む時の態度にはいくつか種類があって、毎日心の中で溜息を着きつつ愚痴りながら同じことを繰り返していく、あとはマシーン(機械・笑)のようになって、自分が嫌だ・面倒だ・不快だと感じることがゆき過ぎるまで、心を無に近い状態にし、機械的にやり過ごす……あるいは、結局やらなきゃいけないことなら、その嫌なこと・面倒なこと・不快なことの内にも、少しくらいは自分にとって喜べる何かを見出して、その割合を心の持ちようによって増やすようにしていく、など、大体この三種類くらいの間を人は行き来してそうなのですが、たぶん3番目の割合というのは、低い方のほうが多いのではないでしょうか。

 マーリン・キャロザース先生の「すべてのことを感謝し、そのことで神さまを賛美する」というのは、わたしたちを取り囲む問題のすべて、不快なこと、面倒なこと、嫌だと感じるすべてのことについても神さまに感謝し、賛美するということで、つまりは3の部分を心の中で100にしていくということなわけですよね(^^;)

「そんなことは無理だ」というのが、一般的な普通の反応ですし、でも、なんとも嫌味なクリスチャンたち(笑)が口を揃えて言うことには、「それはただ、イエスさまを信じ、聖霊さまを与えられることによってのみ、可能となる」ということだったりするわけです。。。

 なんにしても、こうした人生上の悩みに支配されているたくさんの方々に、わたしたちはイエスさまの救いの福音を宣べ伝えていかなくてはならないのですが――わたしの場合、今のところ共感的に話を聞くという以上に、なかなか話が進展してゆかないというのが、一クリスチャンとしての大きな課題となっています

 それではまた~!!





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