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つい先日、とある映画を見ていたら、登場人物の十代の女の子(17歳くらい)が、「自分をなんとなく不幸だと感じる」みたいに言ってたんですよね。「特に何かあるわけでもないのに、自分を不幸だと感じる」と……映画のほうは、高校に通う十代の少女の成長を描いたもので、そう言った女の子は主人公の親友といった立ち位置の子でした。
ずっと前に、確かまだ小学校の低学年の子に対して取ったアンケートで、「いつもなんとなく疲れている」と答えた子の比率がとても高かった……みたいに聞いたことがあったんですけど、これはふたつとも、今ローティーンでもハイティーンでもない大人が聞いていてさえ、「ああ、なんかわかる
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まず、映画のほうの主人公の親友の女の子には、それなりにそう感じる根拠のあることが、見ている側にはわかります。太っていてイケてなくて、勉強は出来るほうだけど、プロムに一緒に行ってくれるボーイフレンドもいない……しかもこの主人公の親友ちゃんが、少し前から自分以外にイケてる女の子と親友になりだしたりと、「十代らしい青春」みたいなものも欠けたまま、高校を卒業しようとしている――といったような感じのことだったと思います。
でももちろんそんなこと、「不幸か?」と言われたら、「不幸」というのは贅沢ではないだろうか……とは、一応思えるということなのかもしれません。学校に友達がいないわけでもいじめにあっているわけでもなく、勉強をすることもそんなに苦でもなく、演劇部でも割といい役をもらえたり――「何か不満があるか」と言われたら、「満足してないけど、特に強い不満があるわけでもない」といった、そんな感じ。
この映画の背景として、イラク戦争というのがあって、2~3度くらい、主人公の女の子がそうしたニュースを聞いたりする場面があります。つまり、「戦争の悲惨さ」といったことを考えたら、「自分をちょっと不幸だと感じる」程度のことは、それこそもっと苦しくつらい思いをしている人のことを考えて、どうにか耐え忍べというそうしたことになるかもしれません。
でも、日本の小学生の子供の、「いつもなんとなく疲れている」ということと、アメリカのティーンの女の子の「自分をちょっと不幸だと感じる」その気持ちって、なんとなくすごくよくわかる気がしますよね(^^;)
塾通いや習い事で疲れている子供たちに対して、「アフリカにはね、学校に通いたくても通えない子供がたくさんいるのよ」と親が言ったりしたら、「うん、そうだね」と頷く以外にないし、「SNSを通した人間関係に疲れた」と誰かに相談して、「そもそもこの世界には携帯なんていうもの自体持てない貧しい人たちだっているんだ。君の悩みは贅沢だよ」と言われたりしたら、「まあ、確かにそうだね」というような話ではある。
でもこの映画の主人公の女の子は、「悲惨の種類が違う」といったような意味のことを、確か映画のどこかで言ってたと思います。そして、映画見てる人はこの女の子の答えこそ「正しい」といったように納得するのではないでしょうか。
実際、アメリカとか日本とか欧州諸国とか……一般に先進国と呼ばれる国に住む人々は、現在「効率化の先端」あたりに常にいると思うんですよね。そして、その先端にいることこそが、一番幸福なことであると信じられているけれど、「そうとは限らない自由」があるということに、少しずつみんな気づいてきているということなんだと思います。
前にもどこかに似たようなこと書いた記憶があるんですけど、日本の義務教育の6・3・3制を終える頃には燃え尽き症候群になってたりとか、実際珍しい話でもないですよね。今はいじめその他の理由によって学校へ行きたくないとなったら、「なんとかなる」、「なんとか出来る」道が他にもある。ただ、こちらの一般的でないというか、スタンダートでないほうの道を選ぶと、別の意味で確かに大変だし、親御さんの協力や理解というのも不可欠とは思います。
ただ、「エネルギーの使い方を間違ってはいけない」と自分的に物凄くそう思う、というのがあって。つまり、イヤイヤながらも義務教育だからという理由によって、三年中学に歯を食いしばって通ったよ――といった場合、そのことで忍耐力がつき、高校以降はその時のことを思えば、なんでも耐えることが出来た、というケースのある一方、おそらくこちらのほうが比率としては高いんじゃないかと思うこととして、その三年間の気の狂いそうな努力・忍耐が結局なんにもならなかった……という場合、親も教師も誰も、責任は取れないんですよね。
かといって十代の子の場合、「それはあなたが自分の心でそう決めて、歯を食いしばって学校へ行き続けたんでしょ」と言うことは出来ないと思うわけです。なんでかっていうと、十代の頃って「とにかく学校へ行きなさい」っていうプレッシャーが物凄くて、「そこから外れる」なんて恐ろしいタブーであるようにしか本人には感じられないし、ある意味この部分は「そう洗脳されている」にも等しいことだと思うからなんですよね。
でも、そうした間違った方向に「努力・忍耐」のパワーを東京ドーム7個分使ったりするよりも、もっと自由な耐えやすい環境下で同じくらい勉強がんばるとか、スポーツのチームに入ってがんばるとか、あるいはその子にとって「やりたいこと」のためにプラスになるような習い事に通わせてあげるとか……そういうふうにするほうが絶対いいってことなわけです(^^;)
その~、先日ラジオで、「今どきの子は軟弱で、ちょっとしたことが原因で学校へ行かなくなったりする」、「物事をすぐ放りだしてやめてしまう」傾向について、軽~く指摘のあるのを耳にしました。なんていうか、このDJさん自身はすごくいい人で、このことも「良い文脈」によって語ろうとしてたんですけど……ただ、わたしの世代だと自分の親が「子供が学校行きたくない」って言ったら、「とにかく学校行け」と言う以外、お尻を叩いてでも学校へ行かせる以外どうしていいかわからなかったのに対して――大体わたし以降の世代の人々にはわかってきたんですよね、だんだんに。「そこまでして無理に学校へ通わせることの意味」についてや、そこであんまり無理をさせると子供が一生親を恨むこともありえると、自分の経験とも合わせてよくわかるという人の比率が増えていったと思うわけです。
ただ、外から見ていて「ここはもう少しがんばらせるべきだな」というところと、「もう休んだほうがいいだろう」という、このあたりの判断が難しくて、こうした場合、「こうするのが絶対的に一番正しい」というのは誰にもわからないわけですよね。でも、時代のほうはだんだんに「そんなにガンバってもいいことないからね
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あ、例によって前振り(?)が長くなってしまいましたが、「なんとなく自分をちょっと不幸だと感じる」場合、マーリン・キャロザース先生の「すべてのことを神さまに感謝し賛美する」って、割とよく効くと思います。何故「物凄くよく効く」と言わないかというと、「物凄くよく効く」ためには、イエスさまのことを信じて聖霊さまを受ける必要があるからです。
ただ、信仰的なことを抜きにした場合でも、とにかく「感謝する」メッセージの入ったことって、なんにしても、大体のところ誰にしても好感を持つ人って多いらしく……ようするに、「雨が降らなければ虹は出ない」とか、「明けない夜はない」とか、そうしたちょっとした前向きメッセージと大体似たものとして捉えるからなのかもしれません。
マーリン・キャロザース先生も確か、「雨が降ってるから、今日は気分が優れない
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わたし今、「訓練」と書きましたが、この言葉からおそらく多くの人が連想するのは、軍隊における厳しくつらい何かについて自分を打ち叩いてでも馴れさせていく……ということのような気がします。でも、神さまによる愛と慈しみによる「感謝と賛美」の訓練は違います。いえ、そういう部分も多少なりあるにしても、それはまずそのように意識を変える、変えることが出来るよう祈り、あとは聖霊さまを通してイエスさまに変えていただく――といったようなことです。
わたしたちの肉による努力とか忍耐には限界があり、むしろそのことをわきまえた上でイエスさまに頼り、あとの残りの部分は「わたしには出来ません」として、聖霊さまにやっていただくわけです。これが信仰による神さまの与えてくださる恵みであり、すると、「感謝と賛美」を通して不思議なことが起きたりするわけですよね。
今日もアレとコレをやって仕事をして帰ってきて、ストレスに押し潰されるようになりながら眠る……といった、鬱病にならないのが不思議なくらいの生活を送っていても、「神さまの愛を感じつつ朝は目覚め」、「夜は神さまに祈りつつ、いつしか眠ってしまう
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「あ~、今日も一日、こんなイヤなことやあんなイヤなことや、したくないアレやコレやの仕事や義務があります。正直、全部やりたくありません。この部分が変わっていくように、どうか神さま、助けてください!!
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すると、「自分をなんとなく不幸だと感じる」といった不幸は、もっと別のものに必ず変わっていきます。あるいは、イエスさまを信じ、聖霊さまを受けていない方でも、「感謝と賛美の精神」によって日々生きるとしたら、そのくらいのことは自分の努力や忍耐の力によって起きてくるかもしれません。
でも、「イエスさまに聖霊さまを通してお願いする・祈る」と、他の方が階段を千段上って目的地へ到着するところ、その横のエレベーターに特別に乗って目的地へより速く楽に到着できるといった恵みのある点が違うのではないか……という、この部分に違いがあるんじゃなかなって思ったりするんですよね(^^;)
それではまた~!!
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