神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

天職について。

2020年10月28日 | キリスト教
【東方三博士の礼拝】フラ・アンジェリコ

 以前、「天職」に関する文章で、「天職」が何かの物にたとえられている文章を読んだことがありました。

 たとえば、扇風機なら、人を涼しくすることがその天職であり、そのことに適った機能がすべて備わっているわけですよね。ストーブだったら、人その他の動物を暖かくすることだったり、炊飯器だったらごはんを炊くことが天職、冷蔵庫だったら食材を冷やすことが……といったように、人が「天職」といったものを求める場合、そんなふうに自分に「ぴったり来る何か」、「納得できる何か」を人生に求めるということなのではないでしょうか。

 ただ、人間の場合難しいのは、特に今の時代だと、「可能性は無限にある」ということであり、さらには「~~になりたい!」と思い、その方向性に向かって一身に努力を続けるも、力及ばず自分が願ったようには夢を叶えることが出来なかった……ということも、よくあることだと思います。

 ところで、神さまは、すべての人がそのような天職を求めるように、御自身を求めること、すなわち神の御子であるイエス・キリストを求めることを願っておられます。けれども、わたしたちにはどの宗教を信じるか、あるいはイエス・キリストのことを信じるか・信じないかの自由意志があり、神さまはそのわたしたちの自由意志をも尊重してくださるわけですよね。

「すべての人は神のために造られた」――と聞く時、多くの方はなんらかの違和感を感じられるのではないでしょうか。続く言葉としては、「それならば何故……ということが起きるのだ!」とか、「わたしの人生は△□じゃないんだ!」といったことが思いの内に溢れる方というのもたくさんいらっしゃるに違いありません。

 けれども、わたしがクリスチャン、キリスト教徒になってみてわかったことは、「すべての事柄は自分(わたし)が中心ではなく、神さまが常に中心におられる」ということでした。かつて人々は天動説を信じていました。つまり、地球が中心で、他の惑星は地球を中心にして回っているということですよね。でも今は、地動説について異を唱えられる方はいらっしゃらないでしょう。すなわち、地球やその他の惑星は太陽を中心にして回っているということです。

 わたしにもうまくは説明できませんが、イエスさまのことを信じると、聖霊さまを受けたことによって、信者には大体これと同じことが起きます。それまでは自分中心だったことが、イエスさまを心の中心に置くことにより、大きな心理的変化、あるいは生活自体にも変化が起きてくるということです。


 >>神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 だから、あすのための心配は無用です。
 あすのことはあすが心配します。
 労苦はその日その日に、十分あります。

(マタイの福音書、第6章33~34節)


「自分を第一に、自分を中心にせず、神を第一に、神を中心にするだなんて、なんたが窮屈そうだな」と感じられる方も多いかもしれません。けれども、ある程度年を重ねてくると、「神さまを第一に、イエスさまをいつでも心の中心にする」ということの重要性がより理解されてくるところがあるような気がします。

 何故かというと、ある種の信仰の極意と言いますか、信仰のコツとして、「なんでも自分でやる」、「なんでも自分の力で努力して成し遂げる」というのではなく――神さまのことを第一に、イエスさまのことを心の中心に置いてさえいたら、あとのことはすべて神さま、イエスさまが聖霊さまを通して導き、成し遂げてくださるからなんですよね。


 >>この戦いはあなたがたの戦いではなく、
 神の戦いであるから。

 この戦いではあなたがたが戦うのではない。
 しっかり立って動かずにいよ。
 あなたがたとともにいる主の救いを見よ。
  
(歴代誌第二、第20章15・17節)


 とはいえ、わたしもやっぱり、人間の力でどうにか成し遂げようとジタバタ☆するということがよくありますし、「そんなエラそーなこと言うからには、いつでもほんとにあんたは神を第一に、イエス・キリストが中心にあるってことなんだろーね」と言われると、この部分に関してもズレていることがしょっちゅうあります(^^;)

 たとえば、今わたし、「鬼滅の刃」という漫画を読んでいるのですが、読んでいる間はとにかく、漫画の内容のことに精神のほうは没入しているといっていいと思います。でも、それはあくまで一時的なことで、本を読み終わると同時――もちろん、暫くの間は「すごく面白かった!」とか、「ああ思った、こう感じた」的なことは考えているとはいえ――思考のほうは結局、神さま、イエスさま、永遠のことについて、必ず戻ってくるわけです。

 学生時代、水・金・地・火・木・土・天・海……といったように覚えよ、と理科の授業で習った記憶がありますが、これは太陽に近い惑星の順番で、水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星・海王星――といったことですが、太陽が神さまであるとすると(※これはあくまでたとえ話であって、天体礼拝的なこととは無関係ということでよろしくお願いしますm(_ _)m)、わたしの思考順位は、常に水星の軌道にイエスさまのことがあるのがもっとも望ましいのではないかと思います。

 ところが、ですね。仕事その他のことに集中していたりすると、そうした「神さまを第一とする」という姿勢が崩れてしまい、イエスさまのことが火星や木星どころか、天王星とか海王星のあたりまで吹っ飛んでしまってる……なんてこと、日常生活ではよくあるわけです(^^;)

 普段、おそらくわたしたちは「いやァ、オラは地球のことだけ(自分のことだけ)うまくいってたら、それでいいズラよ☆」といった態度なのですが――自分の弱さを常に覚えつつも、神さまのことを第一にしようと心がけるなら、その他のこと、すなわち、水星の悩みや金星の苦しみ、火星の望み、木星の喜び、土星のつらさ、天王星の悲しみ……などについても、すべて神さまが御心のうちに整えて、すべてよくしてくださろうとしてくださる、ということなのです。

 今回のトップ画は、フラ・アンジェリコの『東方三博士の礼拝』ですが、彼はカトリックの僧籍にありつつ、その画業においても神さまに大変祝福された、とても稀有な方だったのではないでしょうか。彼は絵筆を取る前に常に祈っていたという話が残っているそうですが、フラ・アンジェリコの絵を見ていると、そうした神さまに対する畏敬の念、荘厳さに打たれるのは、そのせいでもあるのかもしれません。

 フラ・アンジェリコのように、神さまの御心と天職とが重なり合っているような生涯を送るというのは、わたしのような小さな信仰者にはなかなか難しいことだったりするわけですが、この原則を捉えつつ、あとは現実的な実践面においてもっとがんばることが出来るといいな~と思ったりしております(^^;)

 それではまた~!!






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