【羊飼いと天使】カール・ハインリッヒ・ブロッホ
>>私が、神に呼ばわると、
主は私を救ってくださる。
夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。
すると、主は私の声を聞いてくださる。
(詩篇55編、第16~17節)
いえ、今回のタイトルを思いついたのは、実はあるお寺を通りかかったからでした(笑)
わたし、お寺の前にそこの住職さんなどが書いてる紙に墨で書いてある文字があったら、大抵読みます
なんていうか、結構一瞬ドキッ☆とするような、いいことが書いてあるからなんですよ(^^;)
「人を殺したことはないと言いながら、人の心を殺していないか」とか、いつも覚えておこうと思うんですけど、家に帰ってくるとちょっと忘れてしまっているという
そんなわけで、今回もちょっと細かい文言忘れてしまったんですけど(汗)、「朝も夕も仏と一緒の旅なれば、楽しいに決まっている??」という意味だったと思うものの、ええっと、「楽しことなし」じゃないし、なんだったかな……というのを忘れてしまいまして(すみません)
でも、仏さまのところをイエスさまに変えたら――ようするに、「朝にも夕にもイエスさまが一緒の旅なれば、楽しいし嬉しいに決まっている」みたいな感じのことかな~と思いまして
イスラム教徒の方は日に五度、メッカの方向に向かってお祈りすると言いますけれども、聖霊さまは24時間いつでもイエスさまを信じる者とともにいてくださいます
ただ、他のことに気を取られていて、わたしのほうでは24時間いつでも神さまのことに集中できているわけではないというか(^^;)
でも、朝にも昼にも夕にも夜にも、マーリン・キャロザースさんの「感謝と讃美の教え」については実践しているとは思うものの……賛美歌にも♪朝に、夕に、とこしえまでも~、王なる主をたたえましょう、とあるように、折に触れて心の中だけでも賛美したり、思考を神さまのほうに向ける、出来るだけ寄せていく――ということは可能なのではないでしょうか(もちろんわたしも、仕事している間、あるいはゲームしている間、漫画や小説を読んでる間、神さまのことを一切忘れているということはよくあります^^;)。
わたし、聖書全体を読んでると時々、「神さまって悪人に対しても結構寛容だよな~」と思うことがあって……それで、こう思うことがあるんですよね。わたしたちが神さまのことを忘れている瞬間も、聖霊さまはともにあって助けてくれるわけですけれども、仮にもしわたしがイエスさまのことを知らず、24時間「神さまなんか、べつとにどーでもいいし、関係ないもんねー」という生活を送るなら……わたしのほうで神さまが関係ないように、神さまのほうでもわたしのことは「関係ない」ということになるのではないでしょうか。
でも、神さまは神さまのことを考える人間のことを好まれる傾向がある――というのは、確かなことではないかという気がするのです。わたしがイエスさまのことを信じる前段階のことを思ってみても、最初は(それがべつの神であったにせよ)とにかく神さまに祈るということが好きだったり、その後、「神はいるのかいないのかー。うがー!」みたいになってる時でも、<神>ということについては考えてるわけですよ(笑)
それで、そうした宗教的傾向のもともと強い方が、何がしかのエセ宗教に引っかかって不幸になる……ということがあるわけですけれども、わたしの場合は最初に行った教会が「もし何かおかしな気配を感じたら、わたしはキリスト教の神は神ではないとして絶対信じません」と祈ってから行った教会だったのですが、そしたらちゃんと当たって聖霊さまを受けて信じることが出来たのです
つまり、聖書に明確にそう書かれているわけではないにしても(汗)、わたしたまに聖書を読んでいて、神さまって悪人にも結構寛容だな……と思ったりすることの奥には、神さまにとっての『邪悪な人間』というのは実は、「神のことなど一切考えず、畏れもしない人間のことではないのか」と思ったりすることがあります。
「朝にも昼にも夜にも神のことを考える?馬鹿らしい、そんなことやってられっか☆」という方もいらっしゃるでしょうけれども――マザー・テレサが「政治家がもしもっとよく祈るなら、世界をよくしていける」といったことをおっしゃったように、一日に五分でも意識して神さまのことを考え、それを十分、二十分、三十分……と増やしていける人というのは、おそらくほぼ間違いなく神さまからなんらかの恵みをいただけると思うんですよね♪(^^)
それではまた~!!
>>私が、神に呼ばわると、
主は私を救ってくださる。
夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。
すると、主は私の声を聞いてくださる。
(詩篇55編、第16~17節)
いえ、今回のタイトルを思いついたのは、実はあるお寺を通りかかったからでした(笑)
わたし、お寺の前にそこの住職さんなどが書いてる紙に墨で書いてある文字があったら、大抵読みます
なんていうか、結構一瞬ドキッ☆とするような、いいことが書いてあるからなんですよ(^^;)
「人を殺したことはないと言いながら、人の心を殺していないか」とか、いつも覚えておこうと思うんですけど、家に帰ってくるとちょっと忘れてしまっているという
そんなわけで、今回もちょっと細かい文言忘れてしまったんですけど(汗)、「朝も夕も仏と一緒の旅なれば、楽しいに決まっている??」という意味だったと思うものの、ええっと、「楽しことなし」じゃないし、なんだったかな……というのを忘れてしまいまして(すみません)
でも、仏さまのところをイエスさまに変えたら――ようするに、「朝にも夕にもイエスさまが一緒の旅なれば、楽しいし嬉しいに決まっている」みたいな感じのことかな~と思いまして
イスラム教徒の方は日に五度、メッカの方向に向かってお祈りすると言いますけれども、聖霊さまは24時間いつでもイエスさまを信じる者とともにいてくださいます
ただ、他のことに気を取られていて、わたしのほうでは24時間いつでも神さまのことに集中できているわけではないというか(^^;)
でも、朝にも昼にも夕にも夜にも、マーリン・キャロザースさんの「感謝と讃美の教え」については実践しているとは思うものの……賛美歌にも♪朝に、夕に、とこしえまでも~、王なる主をたたえましょう、とあるように、折に触れて心の中だけでも賛美したり、思考を神さまのほうに向ける、出来るだけ寄せていく――ということは可能なのではないでしょうか(もちろんわたしも、仕事している間、あるいはゲームしている間、漫画や小説を読んでる間、神さまのことを一切忘れているということはよくあります^^;)。
わたし、聖書全体を読んでると時々、「神さまって悪人に対しても結構寛容だよな~」と思うことがあって……それで、こう思うことがあるんですよね。わたしたちが神さまのことを忘れている瞬間も、聖霊さまはともにあって助けてくれるわけですけれども、仮にもしわたしがイエスさまのことを知らず、24時間「神さまなんか、べつとにどーでもいいし、関係ないもんねー」という生活を送るなら……わたしのほうで神さまが関係ないように、神さまのほうでもわたしのことは「関係ない」ということになるのではないでしょうか。
でも、神さまは神さまのことを考える人間のことを好まれる傾向がある――というのは、確かなことではないかという気がするのです。わたしがイエスさまのことを信じる前段階のことを思ってみても、最初は(それがべつの神であったにせよ)とにかく神さまに祈るということが好きだったり、その後、「神はいるのかいないのかー。うがー!」みたいになってる時でも、<神>ということについては考えてるわけですよ(笑)
それで、そうした宗教的傾向のもともと強い方が、何がしかのエセ宗教に引っかかって不幸になる……ということがあるわけですけれども、わたしの場合は最初に行った教会が「もし何かおかしな気配を感じたら、わたしはキリスト教の神は神ではないとして絶対信じません」と祈ってから行った教会だったのですが、そしたらちゃんと当たって聖霊さまを受けて信じることが出来たのです
つまり、聖書に明確にそう書かれているわけではないにしても(汗)、わたしたまに聖書を読んでいて、神さまって悪人にも結構寛容だな……と思ったりすることの奥には、神さまにとっての『邪悪な人間』というのは実は、「神のことなど一切考えず、畏れもしない人間のことではないのか」と思ったりすることがあります。
「朝にも昼にも夜にも神のことを考える?馬鹿らしい、そんなことやってられっか☆」という方もいらっしゃるでしょうけれども――マザー・テレサが「政治家がもしもっとよく祈るなら、世界をよくしていける」といったことをおっしゃったように、一日に五分でも意識して神さまのことを考え、それを十分、二十分、三十分……と増やしていける人というのは、おそらくほぼ間違いなく神さまからなんらかの恵みをいただけると思うんですよね♪(^^)
それではまた~!!
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