【ドラゴンを退治する聖ゲオルギオス】カルロ・クリヴェッリ
さて、サタンの努力、第3回目(笑)。
クリスチャンにとっての信仰の拠り所となることに「イエスさまがすでに十字架上で勝利をとっている」ということがあると思うのですが、サタンの努力のいくつかのパターンのうちに、「このイエスさまがすでに十字架上でとっている勝利を奪い返す」というのがあると思います。
つまり、何か人生で問題が起きた時に、「この問題についても神さまはすでに勝利をとっておられる。そのことを喜び感謝しよう」というのではなく、「イエスさまのことを信じていれば、死後に天国へは行ける。でも、生きてる間の問題については自分の力でなんとかしなくちゃいけないんだ。チェッ」みたいについ対応してしまう……といったことがあると、サタンがだんだん喜びはじめるというか(笑)
仮にその当人がわたしであったとしたら、サタンはまあ「やった!コイツはイエスの勝利の意味を忘れかけてるぞ!さらにもっと不幸にしてやれば、そのうち神に対しても文句を言いだすに違いない。そうなりゃしめたもんだ」という形で、結構攻撃されやすくなると言いますか(^^;)
ノンクリスチャンの方でも、「裏切り者」と聞いて思い出す名前のひとつに必ず「ユダ」の名前があると思います。そのくらい裏切り者世界(?)で、ダントツ有名なユダさんですが、ルカの福音書にははっきり>>「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった」(ルカによる福音書、第22章3節)との記述があります。まあ、「一体誰が見たんだよ」と思う向きもあるかもしれませんが、それはさておき。。。
イエスさまのことを十字架につけたことは、サタンにとって神さまに対する大勝利だったのではないでしょうか。つまり、神さまによりこの世に遣わされた救世主(メシア)がユダ(=サタン)によって十字架につけられることにより、この上もなく苦しみながら死んでいったのですから……サタンはたぶん、「ホームアローン」のマコーレー・カルキンくんみたいに、「イエス、イエス、イエースっ!!」とばかり、快哉を叫んでいたと思うんですよね。
ところが、自分の弟子にすら裏切られ、一度は自分をもてはやしたこの世的人々も彼を捨て去り、さらに十字架上では父なる神からさえも霊的に断絶されたイエスさまの十字架上の死というのは、そののちの時代を生きるすべての人のために益となることであればこそ、御父の計画により起きたことでした。
わたし、もし自分がキリスト教徒じゃなかったら、「Oh,Jesus、あんたの人生最悪だな」みたいに、外国人風に言ってたかもしれませんww(なんて不敬虔な^^;)
でも、これこそが御父の打ち立てた、人類に対する永遠の御計画でした。そして神さまは、最悪にしか思えないイエスさまの生涯、十字架上での死を、永遠の益と変えてしまわれました。
このことと同じように、わたしたちの人生も「あー、もう最悪だww」、「死んじまいたいよ」ということがあると思います。
でも、イエスさまが何故そんなことのうちにあってもすでに勝利をとっておられるのかというと――サタンにとっては一時的に勝利を得たように見えた十字架上の救世主(メシア)の死、それを御父は永遠の勝利へと変えてしまわれたからです。つまり、わたしたちもイエスさまほどではなくても、大なり小なり何がしかの問題を抱えて生きているものですよね。でも、イエスさまの「最悪」、「わたしだったらそんな人生絶対送りたくない」といったような人生も、神さまにあっては最高の、またイエスさまにとっても聖書に書かれてあるとおり――「彼は、自分のいのちのはげしい苦しみのあとを見て、満足する」(イザヤ書、第53章11節)……復活し、天に昇られてからは「そうしておいてよかった」と、御自身の苦しみに満足されたのでした。
つまり、人生が回復不能に思えるほど最悪でも、「こんな人生もーいやだー!!」みたいにわたしたちが思っても、十字架上のイエスさまほど「最悪」ではないわけですし、変な話、その最悪からのV字回復をイエスさまが果たされたように、わたしたちも自分が「最悪」と思ってる状態から回復できるわけですよね。そのイエスさまの復活の力を信じるなら……。
そして、サタンのほうでは、御父なる神がサタンの勝利を永遠の敗北に変えてしまったということがわかった時――彼は地団駄を踏んで悔しがったと思います。ゆえに、今度はイエスさまのあとを見習っている信者たちが「イエスさまの十字架の勝利にあずかろう!」と考えて勤め励んでいると、アダムとエヴァを騙したお馴染みのあの手法でどうにか神さまからの祝福にあずかれないようにしようと仕向けてくるわけです。
「おまえはそんなものにあずかる資格がそもそもないんじゃないか?だって人生であんなこともそんなこともしてきたし、おまえのような最低な人間はそう簡単に救いなんてものにはあずかれやしないんだよ」……といったようにもし向こうが言ってきたら、こう言ってやればいいのです。「でも、イエスさまは神の救いに相応しくない者をこそ助けてくださるんだよ!わたしに何か自慢できるものがひとつもなかったとしても、イエスさまの十字架さえ信じていたら、天国にも行けるし、そもそもその血潮の力によって、わたしの罪はすべて赦されているんだ!」
「天国なんてそんなもの、ほんとにあると思ってるなんてバカじゃないのー?そんなもの、IKKO言うところの「まぼろし~」にすぎないんだよ!」と言ってきたら、「イエスさまのことさえ信じていたら、イエスさまを神の御子と告白する者はただそれだけで天国へ行けるんだもん!」と答えてやりましょう(笑)
イエスさまが十字架上で勝利をお取りになって復活した瞬間から、ここから先はサタンにとって敗北しかない敗北ロードが終わりの日、さらには終わりの日が過ぎてからさえも続いていくのですが……でも、それであればこそ、サタンはわたしたちを一人でも多く巻きこみたいのです。その自分の敗北者ロードへ。
ですから、そうしたサタンの策略のうちのどんなものにも引っかからないよう、わたしたちクリスチャンは心していなくてはならないんですよね。クリスチャンとして初期の学びが済むと、大体のところサタンの攻撃が本格化してくるので、大体最初のうちはこう思うことになるのではないでしょうか。「神さまのことを信じ、生まれ変わったような気にさえなっていたのに、主よ、これは一体どういうことですか~!!」みたいに。。。
でも、信仰の建て上げって、サタンの攻撃抜きには語れないところがあると思います。そして、イエスさまに頼り、神さまのカバーリングの中を進んでいくなら、どんな激しい敵の攻撃も、マホカンタ状態で跳ね返し、人生を歩んでいくことが出来るのです♪
>>終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
(エペソ人への手紙、第6章10~18節)
それではまた~!!
さて、サタンの努力、第3回目(笑)。
クリスチャンにとっての信仰の拠り所となることに「イエスさまがすでに十字架上で勝利をとっている」ということがあると思うのですが、サタンの努力のいくつかのパターンのうちに、「このイエスさまがすでに十字架上でとっている勝利を奪い返す」というのがあると思います。
つまり、何か人生で問題が起きた時に、「この問題についても神さまはすでに勝利をとっておられる。そのことを喜び感謝しよう」というのではなく、「イエスさまのことを信じていれば、死後に天国へは行ける。でも、生きてる間の問題については自分の力でなんとかしなくちゃいけないんだ。チェッ」みたいについ対応してしまう……といったことがあると、サタンがだんだん喜びはじめるというか(笑)
仮にその当人がわたしであったとしたら、サタンはまあ「やった!コイツはイエスの勝利の意味を忘れかけてるぞ!さらにもっと不幸にしてやれば、そのうち神に対しても文句を言いだすに違いない。そうなりゃしめたもんだ」という形で、結構攻撃されやすくなると言いますか(^^;)
ノンクリスチャンの方でも、「裏切り者」と聞いて思い出す名前のひとつに必ず「ユダ」の名前があると思います。そのくらい裏切り者世界(?)で、ダントツ有名なユダさんですが、ルカの福音書にははっきり>>「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった」(ルカによる福音書、第22章3節)との記述があります。まあ、「一体誰が見たんだよ」と思う向きもあるかもしれませんが、それはさておき。。。
イエスさまのことを十字架につけたことは、サタンにとって神さまに対する大勝利だったのではないでしょうか。つまり、神さまによりこの世に遣わされた救世主(メシア)がユダ(=サタン)によって十字架につけられることにより、この上もなく苦しみながら死んでいったのですから……サタンはたぶん、「ホームアローン」のマコーレー・カルキンくんみたいに、「イエス、イエス、イエースっ!!」とばかり、快哉を叫んでいたと思うんですよね。
ところが、自分の弟子にすら裏切られ、一度は自分をもてはやしたこの世的人々も彼を捨て去り、さらに十字架上では父なる神からさえも霊的に断絶されたイエスさまの十字架上の死というのは、そののちの時代を生きるすべての人のために益となることであればこそ、御父の計画により起きたことでした。
わたし、もし自分がキリスト教徒じゃなかったら、「Oh,Jesus、あんたの人生最悪だな」みたいに、外国人風に言ってたかもしれませんww(なんて不敬虔な^^;)
でも、これこそが御父の打ち立てた、人類に対する永遠の御計画でした。そして神さまは、最悪にしか思えないイエスさまの生涯、十字架上での死を、永遠の益と変えてしまわれました。
このことと同じように、わたしたちの人生も「あー、もう最悪だww」、「死んじまいたいよ」ということがあると思います。
でも、イエスさまが何故そんなことのうちにあってもすでに勝利をとっておられるのかというと――サタンにとっては一時的に勝利を得たように見えた十字架上の救世主(メシア)の死、それを御父は永遠の勝利へと変えてしまわれたからです。つまり、わたしたちもイエスさまほどではなくても、大なり小なり何がしかの問題を抱えて生きているものですよね。でも、イエスさまの「最悪」、「わたしだったらそんな人生絶対送りたくない」といったような人生も、神さまにあっては最高の、またイエスさまにとっても聖書に書かれてあるとおり――「彼は、自分のいのちのはげしい苦しみのあとを見て、満足する」(イザヤ書、第53章11節)……復活し、天に昇られてからは「そうしておいてよかった」と、御自身の苦しみに満足されたのでした。
つまり、人生が回復不能に思えるほど最悪でも、「こんな人生もーいやだー!!」みたいにわたしたちが思っても、十字架上のイエスさまほど「最悪」ではないわけですし、変な話、その最悪からのV字回復をイエスさまが果たされたように、わたしたちも自分が「最悪」と思ってる状態から回復できるわけですよね。そのイエスさまの復活の力を信じるなら……。
そして、サタンのほうでは、御父なる神がサタンの勝利を永遠の敗北に変えてしまったということがわかった時――彼は地団駄を踏んで悔しがったと思います。ゆえに、今度はイエスさまのあとを見習っている信者たちが「イエスさまの十字架の勝利にあずかろう!」と考えて勤め励んでいると、アダムとエヴァを騙したお馴染みのあの手法でどうにか神さまからの祝福にあずかれないようにしようと仕向けてくるわけです。
「おまえはそんなものにあずかる資格がそもそもないんじゃないか?だって人生であんなこともそんなこともしてきたし、おまえのような最低な人間はそう簡単に救いなんてものにはあずかれやしないんだよ」……といったようにもし向こうが言ってきたら、こう言ってやればいいのです。「でも、イエスさまは神の救いに相応しくない者をこそ助けてくださるんだよ!わたしに何か自慢できるものがひとつもなかったとしても、イエスさまの十字架さえ信じていたら、天国にも行けるし、そもそもその血潮の力によって、わたしの罪はすべて赦されているんだ!」
「天国なんてそんなもの、ほんとにあると思ってるなんてバカじゃないのー?そんなもの、IKKO言うところの「まぼろし~」にすぎないんだよ!」と言ってきたら、「イエスさまのことさえ信じていたら、イエスさまを神の御子と告白する者はただそれだけで天国へ行けるんだもん!」と答えてやりましょう(笑)
イエスさまが十字架上で勝利をお取りになって復活した瞬間から、ここから先はサタンにとって敗北しかない敗北ロードが終わりの日、さらには終わりの日が過ぎてからさえも続いていくのですが……でも、それであればこそ、サタンはわたしたちを一人でも多く巻きこみたいのです。その自分の敗北者ロードへ。
ですから、そうしたサタンの策略のうちのどんなものにも引っかからないよう、わたしたちクリスチャンは心していなくてはならないんですよね。クリスチャンとして初期の学びが済むと、大体のところサタンの攻撃が本格化してくるので、大体最初のうちはこう思うことになるのではないでしょうか。「神さまのことを信じ、生まれ変わったような気にさえなっていたのに、主よ、これは一体どういうことですか~!!」みたいに。。。
でも、信仰の建て上げって、サタンの攻撃抜きには語れないところがあると思います。そして、イエスさまに頼り、神さまのカバーリングの中を進んでいくなら、どんな激しい敵の攻撃も、マホカンタ状態で跳ね返し、人生を歩んでいくことが出来るのです♪
>>終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
(エペソ人への手紙、第6章10~18節)
それではまた~!!
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