神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神を喜ぶことは、あなたがたの力だから。-【4】-

2015年11月28日 | キリスト教
【キリストとマグダラのマリア】アルバート・エーデルフェルト


 今回もまた、マーリン・キャロザースさんの『讃美の力』より、信仰の証からお話をはじめたいと思いますm(_ _)m


 >>ある夫妻が、あらゆる事について神を讃美しなさいという私の話を聞いて、しっくりしない気持ちで帰っていきました。彼らは、自分たちの娘が精神病院に入れられて回復の見込みなしと診断されたことで何ヶ月もの間ひどく苦しんでいたのです。

 この両親は各地の祈りのグループに娘のためにとりなしの祈りを頼み、自らも毎日ひざまずいて娘のいやしのために祈っていました。しかし、娘の状態は依然として変わりなかったのです。

 その子供のことで現状のあるがままを神に讃美しなさいという勧めを聞いて、彼らは最初、悩み困惑しました。母親が言いました。

「こんなにはっきりした悪い事を神さまに感謝するなんて、それは冒瀆じゃありませんか。感謝するといっても、それは娘をなぜこんな目にあわせたのかと、神さまを責めることと同じではないですか。それは"愛の神"という私の考えとは合いません」

 父親もこれに同意して言いました。

「どうも感心しないね」

 しかし、さらに続けました。

「だがね、もしあの先生が正しいとしたらどうだろう」

 妻はどうしようもないという顔で夫を見ました。

「私にはとても分かりませんわ」

 夫は考え込んだ表情で言いました。

「これ以上わるくなりようはないんだ。そうじゃないか。だったら、やってみようじゃないか」

 二人はひざまずきました。夫が祈りはじめました。

「愛する神さま、あなたは私たちを愛しておられます。また、私たち以上に娘を愛しておられます。あなたはこの子の人生にとって最善と思われることをなそうとしておられます。その事を私たちは信じます。ですから私たちは娘の病気を感謝します。娘が入院していることを感謝します。医者にも治療法が分かっていないことを感謝します。あなたの知恵と私たちに対する愛のゆえに、神さま、あなたをほめたたえます……」

 その日、祈れば祈るほど、神は本当に最善をなしておられるということを彼らはますます確信するようになりました。

 その翌朝、病院の精神科医から電話がかかってきました。

「お嬢さんに著しく変化が現れています。面会においでになりませんか」

 それから二週間とたたないうちに彼女は病院から退院しました。一年後、ある集会のあとでひとりの青年が私のところへやって来て、自分はあの子の兄だと自己紹介をしました。彼女はすでに結婚して、近々子供も生まれることになっており、今「世界で一番幸福な人間です」と彼は私に話してくれました。

(「讃美の力」マーリン・キャロザースさん著、浜崎英一さん訳/生ける水の川出版より)


 自分自身や周囲の方々の問題解決のため、日々祈っているというクリスチャンの方はとても多いと思います。

 たとえば、両親や娘さんや息子さんなどが何かの精神病にかかった場合、「どうか主人(妻)を元の主人に戻してください」とか、「娘(息子)を前と同じように治してください」と祈ったりすることが時にあるかと思います。

 けれど、信仰の原則といったものを適用していった時に、今あるがままのご主人(妻)、息子(娘)の状態を感謝し、元よりも前よりもずっと良い状況が与えられていることを感謝します。主よ、わたしは心からそのことを喜びます……と祈りきることが出来た時にこそ、人は問題の解決を見ていくものらしい――というか(^^;)

「なんでそうやねん!」とか、「病気であることを神に感謝するなんておかしいやんか」など、反発心を覚える方は多いかもしれません。でも、そのことを実践した時にだけ、自分の力ではどうすることも出来ない大きな問題の岩が動いた……とおっしゃる方が大勢いるっていうことなんですよね。

 そして、毎日そのことで神さまに祈っているし、教会にも毎週通っているし、奉仕も熱心にしている、献金もしていれば、日々良いことをするよう出来るだけ心がけている……にも関わらず、実は人生上の不平不満に四面楚歌状態で取り囲まれているといったことが時にあるかと思います。けれど、そこを打ち破るためには、「神さまにすべてを感謝し、喜ぶこと」という武器によってしか、問題は解決しないし、新しい人生上の展開もまた起こってこないのではないかと思います。

 旧約聖書に、有名なヨシャパテ王の話が出てきますが、彼は治世のある時、アモン人やモアブ人などの強い軍勢に取り囲まれ、すっかり狼狽してしまいました。以下は、少し長くなりますが、旧約聖書、歴代誌第二からの引用となります。


 >>ヨシャパテは、主の宮にある新しい庭の前で、ユダとエルサレムの集団の中に立って、言った。

「私たちの父祖の神、主よ。あなたは天におられる神であり、また、あなたはすべての異邦の王国を支配なさる方ではありませんか。あなたの御手には力があり、勢いがあります。だれも、あなたと対抗してもちこたえうる者はありません。

 私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜わったのではありませんか。

 彼らはそこに住み、あなたのため、御名のために、そこに聖所を建てて言いました。

『もし、剣、さばき、疫病、ききんなどのわざわいが私たちに襲うようなことがあれば、私たちはこの宮の前、すなわち、あなたの御前に立って――あなたの御名はこの宮にあるからです――私たちの苦難の中から、あなたに呼ばわります。そのときには、あなたは聞いてお救いくださいます』

 ところが今、アモン人とモアブ人、およびセイル山の人々をご覧ください。この者たちは、イスラエルがエジプトの地を出て来たとき、イスラエルがそこに侵入することをあなたがお許しにならなかった者たちです。事実、イスラエルは彼らから離れ去り、これを根絶やしにすることはしませんでした。

 ご覧ください。彼らが私たちにしようとしていることを。彼らは、あなたが私たちに得させてくださったあなたの所有地から私たちを追い払おうとして来ました。

 私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです」

 ユダの人々は全員主の前に立っていた。彼らの幼子たち、妻たち、子どもたちも共にいた。

 ときに、主の霊が集団の中で、アサフ族の出のレビ人ヤハジエルの上に臨んだ。彼はマタヌヤの子エイエルの子べナヤの子ゼカリヤの子である。

 彼は言った。

「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられます。

『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。

 あす、彼らのところに攻め下れ。見よ。彼らはツィツの上り道から上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前の谷のはずれで、彼らに会う。

 この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる」

 それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して主を礼拝し、ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエル神、主を賛美した。

 こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。

「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい」

 それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。

「主に感謝せよ。
 その恵みはとこしえまで」

 彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。

 アモン人とモアブ人はセイル山の住民に立ち向かい、これを聖絶し、根絶やしにしたが、セイルの住民を全滅させると、互いに力を出して滅ぼし合った。

(歴代誌第二、第20章5~23節)


 戦いの最前列に喜び歌う部隊をまず真っ先に出すだなんて、なんて馬鹿げて思えることでしょうか(^^;)

 けれどこの時、ヨシャパテ王率いるユダの軍勢は主にあって完璧・完全なまでの勝利を収めました。

 そしてこれとまったく同じ信仰の原理を働かせさえすれば、「自分はもうこの不利な人生上の条件において勝てないだろう」という時にも、敵の軍勢を打ち破って勝利することが出来ると聖書は教えています。

 何より、こうした形でまったく神に信頼する態度・姿勢をわたしたちが見せた時にしか、人生上の大きな岩は動いていかないというか(^^;)

 むしろ、神さまが「しっかりと立って動かずにいよ」とおっしゃっているにも関わらず、自分で色々動いて人間的な納得できる解決法を求めることによって、傷だらけになってしまうということさえありえます。

 また、信仰の極意というのは、ここにこそあるといっていいと思うんですよね。

 人ひとりの力では動かすことのできない巨石があって、いくら自分で動かそうとしてもびくともしません。けれど、その前に跪いて神さまに心から信頼し祈った時に、自分では指一本動かしたわけではないのに、神さまの一方的な恵みによって、岩が粉々に砕かれてそこを踏み越えてゆくことが出来る……この信仰による勝利のパターンを経験すると、信仰の本質的な<核>がどこにあって、そこさえじっと見ていたら、また再び黒雲があたりを覆うようになったとしても、どうすれば黄金の光が満ちていくのかが次第次第にわかっていくことと思います。

 このコツを掴んでクリスチャンライフ、信仰生活を歩んでいくことと、なんと言いますか、このマーリンさんの『神さまを讃美し、感謝すること』の極意を知らずにキリスト教信者としての生活を歩んでいくこととは、雲泥の差があるといっていいと思うんですよね。

 今日、欧米社会では、キリスト教というものがどんどん求心力を失ってきていると言います。確かに、マーリン・キャロザース先生のような教えと実践を知らずにクリスチャンとしての生活を送っていたとすれば、そうなっていくのも無理のないことかもしれません。イエスさまのことを信じ、洗礼も受けているのだけれども、信仰の実を自分の手でもぎ取って味わうことがなかったとしたら、色々と美味しいものを食べているように見える無神論者が羨ましくなるのも当たり前、というか(^^;)

 この記事は基本的にクリスチャンの方に対するものなので、一般の方には理解しにくいと思うのですが、次回はわたし個人の信仰的なことなので、割とわかりやすくなるかなと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!





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