かつては、みどりの多い
丘陵地区だったこのあたり、
開発にあたっては
大阪府の都市計画も大変だったでしょうねえ。
そんな貯水池を兼ねた
鴨谷グランドに沿って歩いていきますと、
左の甲斐田川にかかる
「ひいらぎ橋」が見えてきます。
その橋のふもとに
川の中で遊ばないように
というこんな看板がありました。
いろいろ書かれてありますが、
最後の一言が聞いていますねえ。
「落ちると助かりません!」だって。
そう、この川もう少し流れたら、
泉北一号線の地下深くを流れる
暗渠の川となるのです。
これもまた、大阪府の当時の
計画なんでしょうねえ。
さて、この橋を渡って、
気持ちのいい道を進んでいきますと
右手に美木多中学校
並びに美木多小学校が見えてきます。
このあたりの開発が進んだころに比べて、
子どもの数はかなり減ったんじゃ
ないでしょうかねえ。
和泉のほうみたいに
小中一貫校の話はないのかな?
そんな緑道を抜けて行ったところに、
右に大きな森が見えてきました。
そのまま自動車道におりて、
しばらく行ったところにあったのが
「美多禰(みたみ)神社」です。
この神社は平安時代の
延喜式にも掲載されている式内社です。
織田信長によって消失しましたが、
楠正成の子孫「和田」によって
再興されました。
この「和田」氏というのがじつは
この地域を語るときに
欠かせない人なんです。
そもそも、「美木多」という地名が
どこから来たかに
この「和田氏」は欠かせないのです。
この和田氏はこの近くの
「和田川」沿いに住んでいた人で、
もともとあの武将
「楠木正成」の子孫に当たる人でした。
この和田氏が住んでいた谷は
「和田谷」と言われていました。
その地名が「わただに」と読むのではありません。
「にきた」あるいは「みきた」
と呼ばれており、
明治22年からそれに
「美木多」の地名が与えられたそうです。
では、和田氏がこの地名を作ったのか
というと、実はそれもどうなのかは
今もはっきりとわかりません。
地名が先にあって、逆に
そこに和田氏が誕生したのかもしれません。
その辺のことは、図書館にあった
2010年に地元自治会が出した
この「檜尾・美木多の歴史」にも
書かれていました。
いずれにしてもわかっているのは
その辺いろんなことが重なって、
「和田谷」から「美木多」が
生まれたということは明らかなようです。
この本の中には岸和田の
「和田」のことも書かれてありました。
その辺はまたいつかにして、
現地の話に戻りましょう。
美多禰神社の参道の階段を
上がっていくと、
こんな田舎の神社ですのに
お参りにきて張る人が4人もいてはって
少々驚きでした。
これが百度石で、
おお~ここに立っている石には、
この寺の緯度と東経が刻まれていました。
こんな石が神社の中に立ってるのも
珍しいですねえ。
あ、この神社の周りの古木は
古いものもあり
「大阪みどりの百選」
に選ばれていました。
さて、この神社を出たら
こんな看板の立っている
自動車道を南に歩いていきます。
あ、この神社の住所は鴨谷台ですねえ。
この地名は先ほど通った
美木多中学校の横にあった
鴨谷池の名前から来ています。
さて美多禰神社前の交差点から
歩道を行きますと、
こんなにたくさんの梅の花が咲いていました。
春も近いですねえ。
その梅畑の横にある
「アオサギ公園」を抜け、
下の道にと降りていきますと、
道の先にお寺の石碑が見えてきました。
これが、高野山真言宗放光寺です。
寺の前に立つ石には
「夜泣き地蔵」の文字が刻まれています。
ああ、この辺は先ほどの神社といい
泉北ニュータウンの新しい地域ではなくて、
昔からあった村であることがよくわかりますねえ。
ありがたく、続きます。