これが「生野八坂神社」の本殿です。
狛犬が2対いて、
古いほうは阿形の顔がこすれていましたな。
よく触られたのかな。
まあ、しっかりとお祈りしておきましょう。
パンパン。
さてコースはここから
北を向いて進ん生きます。
この通り沿いに、
レンガの長屋が続くと
資料にありましたが、
そのあたりはすっかり
建て替えられていましたな。
そうこうしているうちに、
道の突き当りに大きな木が
生えているのが見えてきました。
ここが「生野神社」です。
鳥居のわきにあるのは
「榎」だそうです。
このあたりも昭和40年代に
だんじりを手放し、
祭りの途絶えていた地域だそうですが、
6年くらい前に
河内長野からだんじりを購入し、
今は熱心に祭りをされているようです。
この地域の祭りは夏に行われるようです。
泉州のだんじりとは
少し前の頃ですねえ。
写真で見る限りは
上だんじりのようですが、
前でこも入れての辻周りは圧巻のようです。
「打ちま~しょ、もひとつせ、
よーいやさんの」と
かけ声がかかるそうです。
地域によって微妙に祭りの
形も異なるもんですねえ。
それにしても、暑いときの
祭りって大変そうですねえ。
9月、10月くらいの泉州の祭りでも、
熱中症が出るくらいですからねえ。
で、このいま歩いているあたりの地名は
「舎利寺」という地名になっています。
電プレも「舎利寺東」になっています。
その地名のもとになったのが
この先にあったお寺「舎利尊勝寺」です。
黄檗宗のお寺で、
かなり施設内の西国三十三か所の
霊場碑なんかは古く、
とても趣を放っておりましたな。
境内を眺めたあとは、
外に出て、こんなユニークな
空気穴のある倉庫の壁を見ながら、
古い街を歩いていきますと、
やがて御勝山南公園に
出てまいりました。
昔は岡山と言われていた土地なのに、
徳川家康が夏の陣で
戦勝会をこのあたりで開いたので
「御勝山」になっているんですねえ。
ここは結構緑の濃い公園ですねえ。
中に入ってみますと、
向こうのほうで大勢の高齢者達が
集まっています。
ああ~公園らしく将棋か碁でも
指しているんでしょう。
でもさすがに人が多いなあ
と思いつつそちらへ行ってみると、
これが驚きでした。
将棋をしているのでも、
碁をさしているのでもありません。
高齢者羽生や
老年井山
がいるわけではなく、
そこで繰り広げられていたのは
3台の麻雀でした。
ウヒャア~
最近近所の幼友達との
麻雀に凝っているdoironには
驚きの光景でした。
確かにこの辺りは中国から
来ている人も多いと聞きますが、
この姿を見たら確かに
そうかもしれないと
思ってしまいますよねえ。
公園の北東の角には、
あの同性愛者「折口信夫」の
文学碑があります。
「小橋過ぎ 鶴橋生野くる道は
古道と思ふ 見覚えのなき」。
と刻まれてありました。
そういえばこの公園はちょうど
1年前に大阪市内の低山アルプス縦走で
やってきた、標高14mの
御勝山古墳の横でしたねえ。
あの時はそのあと西向いて
茶臼山のほうへ行ったのですが、
今回はこんな御勝山古墳を眺めながら
さらに北のほうへと
上がっていきましょう。
このあたり、道には歴史の道の
案内石が埋められています。
それに沿ってしばらく行きますと、
「西俊徳地蔵尊」に立ち寄ります。
この前の道が「俊徳街道」と言われる道です。
このブログの読者なら
ちょっと前に聞いた名前ですね。
そう、東大阪の「司馬遼太郎記念館」に
行ったときに、解説して通った道ですね。
河内国高安の長者の息子で、
継母の呪いによって失明した
「俊徳丸」が落魄したのちに、
恋仲にあった娘・乙姫の助けで
四天王寺の観音に祈願することによって
病が癒えるという伝説があり、
その俊徳丸が四天王寺へと
通ったみちがこの
「俊徳道」または「俊徳街道」として
今も残っているんですね。
この地蔵尊の前から
その道へとつながっていきます。
前の道に半分埋まっているこの道標は
「瓢箪山」への道標なんだそうです。
過去の旅とちょっとつながった地蔵でした。
ふむふむと続く。
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