開業直後の東海道新幹線東京駅で母親がリコーフレックスで撮影してくれた写真です。太陽の位置から割り出すと時刻は13時前後ですのでたぶん大丸で昼食を済ませて入場券を購入して撮影したのだと推測されます。撮影したのは第9(18番・19番)ホームですが後ろに見える17番線に停車している0系はパンを降ろしています。鉄博で開業当時のダイヤを見る機会があり運用を調べるとこの0系は9時頃に上って来て入庫することなくここでパンを降ろして夕方に再びパンを上げて17時台の下り列車に充当される様になっていました。当時のダイヤがいかにのんびりしていたかが伺い知れます。また第8ホームも16番線はまだ線路もなくただ片面使用のホームだった様です。
運命とは恐ろしいもので定年退社の職場がまさにこの写真の駅で、更にこのホームが自分の最後の仕事場である事は何かのめぐりあわせだったと思ってます。 64,10.※※ リコーフレックス
私事で恐縮ですが本日、04月30日を持ちましてJR東海を定年退社いたします。憧れの国鉄に就職したものの反対した国鉄分割民営化の流れの中で不本意ながらJRに移籍して計41年間働いた鉄道の中で最初の10年と最後の10年は最前線の現場でした。この間、事故も不祥事もなく退社できる事はもちろん周囲の暖かい眼もありますが自分自身、鉄道の安全を最優先に業務に従事した賜物と自負しています。
1977年(昭和52年)の04月の事。19歳の若輩者が心弾ませて国鉄に入社し大阪・吹田の関西鉄道学園に入園し5か月の研修を経て同年08月17日に卒園し21日に現場配属されたあの日が昨日のように蘇ります。私は本来は東京機関区でブルトレの機関車(EF65P型)を検修(整備)をしたかったので東京南鉄道管理局を希望したのですがいろいろな事情があり新幹線総局と採用と言うと珍しいコースを選ぶことになりました。そのため国鉄に入社したものの在来線を知らずに41年間、新幹線畑で過ごしてきました。国鉄入社当時はまだ現場に東海道新幹線開業時を経験した先輩が多くいて開業前の未知の高速210K/h試運転への苦労話や当時の国鉄の新幹線への意気込みなどをたくさん聞かせてもらうことが出来今それが自分の仕事のプライドにつながっています。今と違って若い頃は新幹線を、そして国鉄を背負う人材になろうと努力しました。その甲斐あって異例の速さで新幹線に実際に乗務して機器担当する走行検査掛になることが出来ました。ただこの頃になると0系新幹線電車も円熟期を迎えまず大きな故障もなく実際は乗っているだけの日々でしたが一度だけ空調(エアコン)のタイマーが壊れセクション(電気の切替場所)通過のためにブレーカー(=NFB)が落ちた事がありました。折しも夏の繁忙期で自由席は身動きできないほどで車内は蒸し暑く空調がトリップしたままではとてもいられない状況で東京から新大阪まで立ったままでセクション通過の度にブレーカーを手動で復帰させた記憶くらいです。また今で言うレーダー研修にも何度も受講し高度な新幹線検修の技術を理論的に構築していました。しかし、この努力を無にする出来事が起きます。それが国鉄に入って10年目に巡って来た国鉄分割民営化と言う荒波です。それまで自分なりに管理者から期待されてそれを励みに頑張って来ましたが国鉄分割・民営化に反対を押し通した国鉄労働組合に所属していた事だけで嫌がらせを受け(今で言うパワハラ?)る様になりました。期待されてたはずがいつしかならず者扱いされ新会社設立当初は”あいつら(国労組合員)には大事な運転業務を従事させるな!”との会社方針から関連事業開発と言う名のもとに東京駅でのお土産販売や”こだま”での車内販売。あるいは新横浜駅構内でのハンバーガーショップや駅前駐車場管理等いろいろな仕事を見せしめの様にやらされてきました。その間、見せしめに耐えかねて国労を抜けて会社側の労働組合に加入し会社側も手のひらを返した様に優遇すると言う事も見た来ました。国労を抜けた人を問い詰めた事はありませんでしたが手のひらを返した会社側には抗議しました。話しは前後しますが、このブログでも何度か書きましたが分割・民営化の日、私たち国労組合員は職場で一つの部屋に押し込められていました。09時に各現業機関で行われた新会社設立式典には参加させてもらえませんでした(そんな式典があることさえ知らず仕舞)。さらに私たちが気がつかなかっただけでしたが設立式典に私たちが乱入し式典をめちゃくちゃにすると懸念した会社側は私たちの居た部屋の鍵を鎖鍵し軟禁していたのです。式典が終わり部屋の鍵を解錠する音で私たちは軟禁されていた事実を知り担当管理者に抗議するとその管理者は〝よく聞け!お前らは本来新会社に採用されるはずのないならず者だ。それが政治的配慮で新会社に採用となった。これは新会社としては不本意で到底受けありがたいものであったが相手が政治だったから受けいるしかなかった。だからお前らは一日も早くこの会社から自らの判断で去る事を願う!〝と言って去ろうしました。すかさず私は〝その言葉、忘れないぞ!〝と投げかけるとその管理者は〝忘れないぞ!ではなく肝に命じておけ!〝と部屋を出て行きました。あの日の屈辱は30年以上経った今も忘れられないし忘れてはならないと思っています。私は鉄道が好きで国鉄に入りましたが新会社には不本意で働くことになったと30年間思っていました。
新会社になりしばらくは差別的で見せしめでしかない関連事業を転々とした後にひょんな事から予約センターに転勤しました。この予約センターは本社組織内でありながら非現業ではなく現業機関でした。本社の現業組織と言う特殊性から国労差別はなりを潜め管理者同等の仕事を与えられ自分の仕事ひとつで会社が変わるような重責な仕事も与えられプレッシャーを感じた時代もありましたが予約センターが本社組織から現業組織に組織替えすると途端に国労差別が復活して責任ある仕事は剥奪されてて労務政策ひとつで自分の働き方も激変する事を思い知った事もあります。更に予約センター廃止後に駅務へ移動となると更に国労差別は激化し今に至っています。
私は労働運動をするために国鉄に入った訳でもありませんが労働運動に翻弄された40年間だったと思います。ただ、30年前、国鉄と言う組織は民営化はしても分割したら弊害が大きすぎると反対した事は今もって間違っていないと思いますし、今のJR北海道の姿に象徴されますが分割して交通弱者だけが損や不便を被っている姿を見る度に私の主張は正しかったと確信しています。
”60歳はまだまだ!”との声もあり未知の仕事も経験したいので再就職活動もしていますがとりあえず収入は1/3となりますが現職で再雇用の道を選び、しばらくは今までの経験を生かして過ごす事になりそうです。今の仕事は40歳代でもハードだと言う職場で60歳には体力的に大変にきつい職場でいつ倒れるかわかりませんが新しい仕事が見つかるまでマイペースで毎日を過ごしていく所存です。今後とも線路際では宜しくお願いいたします。
27日は定年退社の辞令伝達式で管理部門に呼ばれ退職の辞令と感謝状を受け取って来ました。管理者と一般社員と別仕立ての式次第だったために私の伝達式は一般社員で60歳を迎えたと言う、何処の労組にいようとも少し変わった人が集まった事は式典の部屋に入るなりにわかりました。式典後は昼食会となりましたが目の前席が管理課長とその代理で料理は美味しかったのに会話が弾まず全く無駄な時間になってしまいました。職場に帰ってきて後輩が休憩中だったので無理言って50年前の写真とほぼ同じ場所で記念写真を撮ってもらいました。 18,04,27 東京駅第8ホーム 13:33頃 iPhone7カメラ機能で撮影
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中村信雄
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