黒駒 寺社参拝記

畿内を中心とした寺社参拝記です。主に西国三十三所や聖徳太子霊場を巡礼中です。

我が家の秘仏ご開帳!

2009-02-10 19:01:17 | 仏教・神道・寺社一般
密教の世界観が見事に具現化された佛尊たち。
眼光鋭い大日大聖不動明王を中心にそれぞれの印を結んだ
大威徳明王・降三世明王・軍茶利明王・金剛夜叉明王が鎮座し、その四方を
四天王と金剛力士が守護する。普段は四天王に踏みつけられる邪鬼も灯篭を持った
天燈鬼・竜燈鬼として表情豊かにその存在をアピールしている。


極彩色が大変美しい愛染明王・大日如来・孔雀明王と優美な像形の阿修羅・韋駄天


大変気高い面持ちの文殊菩薩・如意輪観音・毘沙門天・聖徳太子


まあ・・・シャレですから・・・w

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仏像 防犯か信仰か

2009-02-09 18:28:33 | 仏教・神道・寺社一般
先日の京都新聞で上記のテーマの記事が載っていました。
昨年から京都市内などの寺院で仏像の盗難が相次いでいるそうです。
毘沙門堂、東寺、仁和寺、等持院、建仁時・・・。
仏像マニアか売却目的なのかは犯人が逮捕されないとわかりませんが、
いずれにしてもとんでもない罰当たりな盗賊です。

盗難にあったのはカギのかかっていないお堂などから盗まれたそうですが
中には白昼堂々と盗み出す姿がカメラに映っていたところもあったそうです。
たしかに参拝者の比較的多い昼などにまさか盗賊がいるとは思わないので
その瞬間を見たとしてもお寺の関係者だと思うかもしれませね。

各寺院では対策で頭を悩ませているようで、拝観してもらってこその仏像だから
見えにくくするのは信仰の精神に反する・・・という意見がある一方で盗まれたら
元も子もない・・・という意見もあるそうです。これは参拝者側でも意見が
分かれるでしょう。僕はどちらの考えも間違いのないもっともなことだと思います。
どこで妥協点を見つけるか・・・ですね。

安置している仏像を動かすと警報が鳴るシステムが安価で簡易的にできないですかね。
万引き防止ゲートみたいなもん。CDやDVDでも多量対応できているから仏像にも
有効だと思うんですけどね。所詮素人考えですけど・・・。

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丹後 田辺城址 その2

2009-02-08 12:35:42 | 歴史
田辺城は宮津城を本城とする丹後国主細川家にとっては支城のひとつです。
そんな田辺城が歴史上にその名を大きく残したのが関ヶ原の戦いの前哨戦である
田辺城の攻防戦でした。

細川家は当主が藤孝(剃髪して幽斎と号す)から忠興に移っていました。
徳川側の東軍と石田側の西軍の総力戦の前に石田三成は畿内を制圧すべく
東軍に組みしていた細川家の領地である丹後にも1万5千の兵を送り込みました。
当主忠興は細川軍の主兵力を率いてすでに東軍に合流していたため、丹後の細川軍の
兵力は隠居の幽斎のもとに約500人のみ。幽斎は本城である宮津城を自ら焼いて
田辺城に兵500とともに籠城して1万5千の西軍と対峙することになりました。

ここで幽斎を救ったのが、古今伝授という古今和歌集の秘儀を伝承している当代随一の
文化人であったことです。朝廷は講和を勧めますが、幽斎も隠居とはいえ武将なのでこれを拒み、
古今和歌集の奥義とともに一首の和歌を朝廷に進呈しました。そして決戦に挑もうとしましたが、
朝廷はなんとしても幽斎を落命させてはならないと考えて勅命をもって両軍に講和を命じたので、
幽斎もようやく田辺城を開城して降伏するに至ったのです。

しかしこの田辺城の攻防が本戦である関ヶ原の戦いに大きく影響しました。
田辺城を包囲していた西軍1万5千の兵がこの攻防戦のために関ヶ原での戦いに
間に合わなかったのです。
一方、忠興率いる細川本軍は関ヶ原の戦いで石田本隊に猛烈な勢いで攻めかかり、
その軍功によって丹後12万石から豊前40万石、さらには肥後54万石と加増されて、
有力外様大名となり明治維新を迎えました。子孫には細川護煕元総理大臣がいます。

幽斎が古今伝授の書を勅使に渡した場所は、後に田辺城主となった牧野氏に
よって庭園がつくられ「心種園」と名づけられて今も城址に残っています。
右上方の碑のある小高い丘の松の木が「古今伝授の松」




幽斎の歌碑。子孫の細川護貞侯爵(元総理の父)による揮毫。




細川家が豊前に転封ののちは、京極家・牧野家が入封して城下町の整備が行われます。
今も市内には「二の丸」「三の丸」「職人町」「寺内町」「大手通」など城下町特有の地名が残ります。
また城址付近にはかつての外堀が小川として今も水が流れています。




田辺城址の前にある「明倫小学校」の正門は幕末の藩校「明倫館」の門。僕の母校ですが
この正門は入学式と卒業式の時だけ開門されて通りました。


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丹後 田辺城址 その1

2009-02-07 15:47:40 | 歴史
たまには地元のネタも書かないとね・・・ということで、わが地元京都府舞鶴市の
史跡である「田辺城址」を今回は2回にわけて紹介いたします。

まず地理的にですが、京都府舞鶴市は京都市から約100キロほど北にある
日本海若狭湾に面した港湾都市で山を挟んで東西に分かれ、西は城下町として
東は軍港として栄え、現在も海上自衛隊舞鶴地方総監部が置かれています。

歴史を古代にまで遡れば、平安期には醍醐寺の荘園地であり、室町期には守護大名である
一色家が領地として治め、近世には一色家を滅ぼした細川藤孝が丹後国主として入封し、
田辺城を築きました。細川藤孝は室町幕府管領細川家の傍流の家系で室町将軍家・織田信長・
豊臣秀吉・徳川家康に仕えた武将で文化人としても超一流の人物として有名です。
嫡男は細川忠興で関ヶ原の勲功により細川家は肥後熊本へと加増転封となり、
次いで京極家、京極家転封ののちは牧野家が大名領主として幕末に至ります。

田辺城址は舞鶴西地区の中心街にあります。入り口の大手門(本丸櫓門)は平成4年の復元。


城址は現在は公園として整備されています。建造物はすべて復元で遺構としては石垣が残るのみです。
天守台の石垣。天守閣は築かれませんでした。


本丸石垣。僕が子供の頃は城攻めごっこでこの石垣をよくよじ登って遊んでいましたよ。


城址公園の外側にある二の丸石垣。いかにも城址ですがどっしりと残っています。
堀址も残っています。




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口宣案2

2009-02-03 18:02:00 | 歴史
昨日の続きです・・・。
さて「橘俊徳」という人物ですが、橘というのは本姓(氏)であって苗字(家名)ではありません。
朝廷の公文書では苗字ではなくて古代からの本姓(氏)で書かれます。
例えば織田信長は「平信長」徳川家康は「源家康」です。
それでこの「橘俊徳」にも別に苗字(家名)があるのですが、この口宣案の包紙に
書いてありました。



少し見えにくいかもしれませんが「角田加賀介俊徳」とあります。角田という苗字(家名)です。
オークション出品者の古物商の方に尋ねると、明治維新後戦前までは角田家は
皇族である「久邇宮家」の家令をしていた家だそうです。
それでは江戸時代にはどういう身分だったのか? これは僕の方で調べました。

僕が所蔵している本で『地下家伝』というものがあります。これは朝廷の下級官人の
名簿みたいなもので、江戸末期に編纂されて昭和初期に活字化されました。
僕が持っているのはその活字化された厚さ10cm以上もある本です。
これで調べるとすぐに橘俊徳なる人物の略歴がわかりました。



これによると知恩院宮門跡の諸大夫家(上級家臣)だったことがわかります。
それで、見てください。「天保十年二月廿九日 叙従六位下 同日 任加賀介 十五歳」とあります。
まさにこれ、この時の辞令書=口宣案なのです。

さらにもうひとつ、公家鑑である『雲上明覧』の知恩院宮門跡の頁を見てみると・・・ありました。



下の欄の左から2番目に「角田加賀守」とあります。弘化元年の20才の時に加賀守に
昇進していますね。
ちなみにもうちょっと調べてみると、『地下家伝』の記述を信じるとすれば俊徳は
角田家には養子で入ったみたいで実父は摂家鷹司家諸大夫の高橋兵部大輔俊彦と
なります。高橋家から何かの縁で角田家に入ったのでしょうか。

俊徳の記述は幕末の安政3年で止まっているので、その後のことはわかりません。
明治維新時には40才を超えていたと思われますが、本人かその後継ぎかが
これまた何かの縁で久邇宮家に仕えることになったのでしょう。

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