黒駒 寺社参拝記

畿内を中心とした寺社参拝記です。主に西国三十三所や聖徳太子霊場を巡礼中です。

口宣案1

2009-02-02 19:12:09 | 歴史
先日、オークションで口宣案(くぜんあん)という古文書を落札しました。
口宣案とは朝廷から発給される辞令書のメモ書きのことです。
本来の意味はメモ書きなのですが、中世以来江戸末期までは正式辞令書とほぼ同等の
意味合いを持つ公文書となりました。とりあえずUPしましょう。2通あります。



簡単に説明しますと、「橘俊徳を従六位下の位にせよ」という天皇(当時は仁孝天皇)の命令による辞令書です。
これを書いたのは文末に署名のある甘露寺愛長という名前の公家ですが、独特な署名に
なっています。これを活字に直してみると「蔵人右中弁兼右衛門権佐皇太后宮大進藤原愛長」となります。
名前の前に官職名を書きますが4つもあって長いので1列で署名するために字自体を平べったく書くのです。
これを割書といいます。冒頭の上卿日野中納言・・・というのはこの口宣案を渡す相手でこの日の朝廷の
政務責任者です。天保10年は西暦1839年なのでおよそ170年前の古文書になります。

もう一通は上記の叙位と同日に「加賀介」に任官するという辞令書です。


さてこの天保10年2月29日に従六位下加賀介となった「橘俊徳」という人物ですが
どういった身分・経歴の持ち主なのでしょうか・・・。それは次回に。


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豊国神社・方広寺

2009-02-01 10:36:47 | 京都の寺社・御所・離宮
京都国立博物館から徒歩5分ほどのところに豊太閤を祭神(豊国大明神)とする
豊国神社、そして隣接して豊太閤による創建の方広寺があります。

豊臣家が大坂夏の陣で滅亡した後は徳川将軍家によって豊国大明神の神号が剥奪され
豪壮を誇ったとされる豊国神社の社殿は破却されてやがて朽ち果てていったということです。
徳川将軍家による亡き豊太閤に対する執拗な嫌がらせは廟所への参道も
塞いで荒れるにまかせて誰も参詣できないないようにする徹底ぶりでした。
豪壮な日光東照宮に祀られている徳川家康とは対照的に江戸時代を経て
明治を迎えます。そして維新後は名誉回復がなって豊国神社も再興されます。

唐門は伏見城からの移築で国宝


豊国神社に隣接して狭い境内には不釣合いな巨大な梵鐘が目立つ方広寺があります。
その巨大な梵鐘こそ豊臣家滅亡への端緒のひとつとなった「君臣豊楽 国家安康」の銘文が
刻まれた梵鐘です。ちなみに日本三大梵鐘(これと東大寺と知恩院)


白く塗られている箇所が「君臣豊楽 国家安康」の箇所。この文が家康の名前を引き裂いて
呪っているとして難癖をつけます。豊臣家を窮地に追い込むための家康の挑発ですけど。


方広寺は地震や火災で次第に規模を縮めていきます。梵鐘も明治の初めには
野ざらしになっていました。写真は明治初年のもの。


かつては大規模な伽藍を誇った方広寺の遺構である大石垣。


豊国神社門前通の大和大路をそのまま北進するとゑびす神社にたどりつきます。
前回の都七福神巡りではすんごい人ごみでまともに参拝できなかったので
今回はゆっくりと参拝しました。

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