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勝海舟が慶応3年12月に書いた「憤言一書」

2018-07-06 21:17:36 | 日記
慶応3年1867年10月14日第15代将軍徳川慶喜は大政奉還を上表して将軍の座からおりました。その年の12月9日には薩長による王政復古のクーデターが起きます。京都では11月15日に坂本龍馬が暗殺され不穏な動きが加速していきます。二条城にいた徳川慶喜も京の厳しい情勢に12月13日には大坂城に移ります。この時期、勝海舟は江戸にいますが、この一連の情報については大阪湾に停泊中の幕府海軍開陽丸の艦長榎本武揚から情報を得ています。この情勢に憤慨した勝海舟は「憤言一書」という書を書き海軍総裁稲葉正巳に提出して辞職願を出しています。辞職は認められずそのまま海軍に勤務することになるのですが、その「憤言一書」には大政奉還は認めつつも王政復古政権の批判は避けているものの結局は大名レベルの権力争いで大政奉還した「公」が大切であると言っています。
勝海舟は幕府海軍に入ったころには海軍は単なる幕府だけのものではなく一大共有の海局という雄藩連合海軍の理想を持ち明治に入っても「公」の理念を掲げて、「党を作って人を集めるのは一つの私」と切り捨て薩長は明治政府内で権力争うしている姿に閥末と言い放ちました。
歴史は繰り返されると言いますが、時代が変わっても政治の権力争いは政治家の私利私欲のよる「私」の争いであり「公」の理念を掲げる政治家が少ないこともまた繰り返される原因であると思われます。
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