Haste not, Rest not

二度と返ってこない今の自分の気持ちを積み重ねる部屋。

ゴッチの日記 転載

2013-03-19 11:10:28 | 人生

あれから2年
(2013/03/11 06:21)

 震災から2年が経った。

 当時、都内のリハーサルスタジオで感じた揺れは、はっきりと生まれて初めて感じる種類の振動だった。建物の外に避難しながら、小さい頃から心配されていた東海地震のことも思った。とにかくどこかで、とてつもない地震が起きたのだということは分かった。路上では電線がヒュンヒュンと音をたてて揺れていた。

 スタジオのロビーに戻ってテレビを点けたところまでははっきり覚えていて、あとはフジテレビの近くから黒煙が上がっている映像が焼き付いている。どの時間から日本の地図が津波警報や注意報を示す赤や黄色のラインで囲まれたのかは覚えていなくて、どこの町かは知らないけれど、漁船が押し寄せる波をかき分けながら川を遡上するように進んでいる映像と、港や水産加工会社などのカゴが流されていく映像も頭のなかに今でも残っている。その映像をみたときは「うわー!」と思ったけれど、実際の揺れからはしばらく時間が経っていたので、沿岸部の人たちはどこかに避難しているだろうと思っていた。そして、夕方前にマネージャーの車に乗り合わせて、自宅へ向かった。

 高速は通行止め。仕方がないので下道で自宅に向かった。横浜に入ったあたりで日が暮れて、三浦半島の先まで真っ暗であることが分かってとても驚いた。コンビニくらいしか電気が点いていないブロックもあって、人がぞろぞろ歩いていた。道路も大渋滞で、俺はコンビニに車を寄せてもらって、パンと水を買った。コンビニはまだそれほど混んではいなかった。

 自宅のまわりは真っ暗だった。信号さえも点いておらず、家にいても落ち着かないので近所の体育館に避難した。体育館は通路や別室までひとで溢れていた。炊出しの冷たい具無しチャーハンのパックをもらって食べ、毛布を借りて白いマットを旅行でやってきたが電車が止まって帰られなくなったという老人男性とシェアして、横になった。老人はそのあと、車で迎えにきた友人の家に行くといって帰っていった。俺は横になったが、マットは固いし、寒いし、なにより不安で、まったく寝られなかった。3時まで起きていると町に電気が戻り、どうやら自宅付近の停電も解消されたようだったので、自宅に戻って休んだ。

 次の日の朝になって、本当の被害が露になり始めた。TVでは、建物の上やグラウンドでSOSサインを出しているひとたちの映像が放送されていた。俺はソファーに横になったまま、動けなくなってしまった。急激なストレスからか、ズーンと後頭部を締め付けるような頭痛に襲われて、その日のリハーサルは休ませてもらった。ニュースをずっとみていたはずなのだけど、細部が抜け落ちている。何か変なスイッチが入ったのか、そこから数日であったことの前後関係を上手に記憶していない。何が先で、何が後だったか、まったく思い出せない。とにかく大きな戸惑いの中にいたことだけは感覚として残っている。


 2年後の今日は、昨年と同じく日比谷公園で行われた追悼イベントに出演した。会場に着くと様々なスピーチが行われていて、やや震災よりも原発問題に寄った雰囲気に違和感を感じた。今日くらい、震災のことだけ考えてもいいんじゃないかと思ったりもした。後のトークセッションや夕方に参加した講演会でも、なんとなく3月11日に話す内容としてふさわしいのかどうかという逡巡があった。もちろん、役割はまっとうしたのだけれど。

 2時46分に黙祷。脳裏に大船渡や陸前高田、気仙沼、石巻、仙台の荒浜地区、南相馬の萱浜、行ったことのある場所の風景が浮かんだ。それは一瞬だし、いろいろ混じり合って鮮明なものではないけれど、塊として目蓋の裏側に浮かんだ。俺はグーっと胸が苦しくなって、「逃げろ、逃げろ」と繰り返し心の中で唱えた。あの日のあの時間を思って、それから起きたことを思って、「逃げろ、逃げろ」と何度も思った。それは届くはずのない言葉だけれど、もしかしたら、時間や空間を越えてあの日のどこかの誰かに届くかもしれない。笑われてしまうかもしれないけれどそうやって念じた。追悼のために鳴らされた鐘の音を聞きながら、大きな「震災」のなかであった喪失の数々をまとめて祈るというよりは、モニュメントとしての2時46分を思うと反射的にそうなってしまう。去年もそうだった。静かに祈りたいのだけれど、「逃げろ」という言葉が強い後悔や悲しみとともに浮かんできてしまう。

 まだ、自分は戸惑ったままなんだと思う。

 また現地に行くことがあれば、それぞれの町の、それぞれの場所で手を合わせたいと思う。静かに祈りたい。3月11日。

ゴッチの日記 転載

2013-03-19 11:08:59 | 人生

前夜
(2013/03/10 09:55)

 寝る前に、明日で2年だなと思って、いろいろなことを思い出した。

 3月11日の、14時46分というのは大変なことが起きた時間であって、だからこそモニュメントでもある。だけれども、このモニュメントだけに記憶を寄せてしまうと、それはそれで零れ落ちていくものがあると思う。言葉は良くも悪くもイメージを単純化してしまう。でも、その時間「から」いろいろなことが始まって、それはひとそれぞれで、そういうことも忘れずに、明日を迎えられたらなと思った。すべては今日まで続いていることだから。

 その時間に黙祷は、俺の想いとしては毎年ささげたいけれど、いつでも、思い出したときが追悼の時間で、会ったことのあるひとを思ったり、想像の及ばない悲しみについて考えてみたり、そこから見える僕らの未来について考えてみたり、そうやって進んでいけたら良いなと思う。

 そういうことを確認するための、3月11日になれば良いなと思った。3月10日。

ゴッチの日記 転載

2013-03-19 11:08:10 | 放射能
NO NUKES 2013を終えて
(2013/03/09 08:57)

『NO NUKES 2013』に出演。

 脱原発で金儲けのフェスしやがって!という意見をツイートするひともあるけれど、そういうフェスティバルではないよ。YMOのメンバーがそれぞれのバンドで出演したり、まあ顔ぶれを観るだけで、この人たちがまともにギャラをもらったらとんでもないことになります。笑。大赤字も良いところ。そして、僕らの共通認識として、こんなフェスは早くなくなってしまえ!と思っている。やらなくていいのならば、やりたくなんてない。

 目立ちたくて何かをするならば、こんなに損な役回りはないと俺は思うんだ、本当に。坂本さんなんて、ネット上ではボロクソ言われているじゃないか。音楽をやっているだけで、世界中から喝采を浴びるようなひとが。笑。そこに陰謀なんかあるわけがない。

 でも、それでも声を上げないといけないことがある。奇人扱いされてもね。

 原子力発電は今のままではやっていけない。廃炉にする方法を誰も知らないんだから。これは事故を起こした原発の廃炉なのではなくて、普通に動いていた(あるいは動いている)原発の話だから、尚更。原子炉は、そのものが運転中に放射性を獲得する。解体すれば、放射性廃棄物になる。だから解体するのがとても難しいとのこと。実際に、解体された商業用の原子炉って日本にひとつもないんだよ。なんともない原子炉も、解体に成功していないっていう、冗談みたいな技術。

 燃料棒の捨て場所も決まっていない。埋める場所、決まるかな。震災で出た瓦礫の処理で紛糾してしまうような世の中だし、普通ゴミの焼却場だって、どこに建てるのか自治体は苦慮している。普通ゴミの焼却で出た灰の最終処分場を持っている自治体って、案外少ないんだよ。自分の町にあるかどうか調べてみると良い。ほとんどの町には最終処分場がなくて、どこかの自治体や産廃業者に頼んでいたりする。もちろん、お金を払って。

 つまり、ゴミの問題って大変なんだ。それが放射性廃棄物(核のゴミ)だっていうんだから、しかも近寄ったら即死レベルなんだから、頭が痛い。きっと、政府も自治体も科学者も頭が痛いはず。他の国だって同じこと。

 原発はいらないっていうか、無理なんだよ。現在の技術では。人工の太陽(比喩として)を制御する技術が、まだ人類にはないってこと。で、いつか獲得するでしょうってことで何十年もやってきて、問題を解決するような革新的な進歩は、今のところない。


 いろいろなことがこんがらがっていて、現実の、政治や社会や経済の問題に直結してしまうから、言葉を紡ぐのが難しい。単純な「反対」という2文字に疑問を抱く神経は、普通だと思う。「簡単に言うな!」ってもっともだと思う。震災と事故を契機に、声量があがったように感じられることが、確かにヒステリックに映るかもしれない。実際にヒステリックなひとも中にはいると思う。俺も違和感を感じるよ。

 でも、俺たちが理想を語らないといけないんだ。夢想家と言われてもね。原発(核爆弾を作るための技術だよ)も、核爆弾も、『NO NUKES』という音楽イベントも、いつかはなくなるべきだよ。絶対に。3月9日。