ミュージシャンは音楽だけをやっていろ、という言葉を割とよく見かけるのだけれども、政治的なものとそうでないものがパキっとふたつに別れていると思っているほうが間違いだと俺は思う。生活と政治の間に、誰も越えられないような溝や隔たりのようなものがあって、自分たちのすることはその隔たりの内側(あるいは外側)のものであると考えているのならば、それはもう民主主義自体を放棄しているようなものだ。
例えば、選挙で投票することが政治的な行為であることくらいは、誰も疑わないと思うんだけれども、俺から言わせれば、日々、何を買うのかということも十分に政治的だと思う。安ければええわっていう根性だけですべての物をすべての人が求めて行けば、自然とそういう社会になる。こっちは客なんだから最も安い価格で最大の効果を上げろや!と病院でも学校でも皆がお客様気分で要求したりすると、どんなに息苦しくなるか想像してみて欲しい。逆に医者や教師が金儲けだけ考えていたら怖いでしょう。笑。どういうマインドで物を買ったり、あるいは職業に就いているのかってことは、投票みたいに真っ直ぐに政治に結びつかないかもしれないけれど、十分に政治的なことなんだ。俺たちの行動の集積が社会だからね。だから、政治と生活の境界はもっとぼんやりとしたもので、どこからどこが違うのかってのは、なんとも言葉にしにくいものだと俺は考えている。
俺の音楽だってそういった生活の中から生まれるからね。電車に乗り、バスに乗り、ふらっと小汚い中華料理屋で炒飯を食べて、自分の作業場で曲を作って、自宅で歌詞を書いている。どんな街でどんな暮らしぶりなのかっていうのは、ものすごく作品に影響する。どこに行っても顔がバレてしまって大変、みたいな感じではやって行けない。笑。普通って言葉は難しいけれど、俺が考える普通の暮らしの中で、音楽や言葉は生まれているから。
まあ、そう考えると、音楽も生活の中で生まれてくるわけだから、政治との間にだって大きな、はっきりとした隔たりなんてないんだよ。そこも、どこかで地続きなんだ。屁理屈ではなく、ね。
そして、生憎、俺のやっていることは誰かを楽しませるため「だけ」にはない。100%のエンターテインメントかって言ったら違うし、でもエンターテインメントではないのかって聞かれたら、そういう要素もあると答える。エンタメの要素もあるし、粗野だけれども芸術の要素もあるし、文学の端くれでもあるし、表現でもあるし、プリミティブな魂の叫びでもあるし、もっとバカバカしい何かでもある。で、それらの間に、パキっとした隔たりは、これまた、ない。相撲が武道でスポーツで娯楽で見せ物で神事であるっていう、様々な要素を抱えているように。
君がどんな音楽を選んで聴くのかってのも、どこかで社会に関わってる。どんな方法で聴くのかについても。どんな気分になるのかも、ね。
すべてにおいて、俺たちは勝手に隔たりをでっち上げて、自分は溝の外側である(あるいは内側)と規定して無関心を貫いている。自分を守っている。マンションの自治会ひとつとったって、俺たちは参加することに億劫だ。面倒だからね。でも、誰かが代わりにやっている。なにかの不便が生じたときにだけクレームを出すのは簡単だよ。でも、本当は、住民には、住民の参加すべき場がある。それはみんなの大嫌いな、政治的な場所だよ。俺たちはこういう場所を徹底的に避けて、ここまで来た。
まあ、俺たちというか、俺のやっていることを批判するのは問題ないんだけど。なんか嫌だなぁ、とか、いいと思う。嫌なら嫌でも。笑。嫌だなぁとか思う対称がいないのもなんか変な世界だし。人前に出てなにかしている人って十分に特殊だから、なにあれ!?とか言われて当然だとも思う。
でも、いろいろな物ごとの間に、ありもしない境界線を引くのはやめて欲しいなぁ。選挙に出馬することと、コンサートを開くことが別の行為だってことは分かるけれども、そういう切りとり方の話をしてるんじゃないんだよ。人と人が影響し合って、僕たちの社会は成り立っている。もっと複雑なことなんだ。ふたつの間には境界を示すラインはないんだよ。
8月30日。
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まったくもってその通りすぎて、
刺さる。