Haste not, Rest not

二度と返ってこない今の自分の気持ちを積み重ねる部屋。

ゴッチの日記 転載

2014-10-09 21:32:16 | 詩備忘録

 ミュージシャンは音楽だけをやっていろ、という言葉を割とよく見かけるのだけれども、政治的なものとそうでないものがパキっとふたつに別れていると思っているほうが間違いだと俺は思う。生活と政治の間に、誰も越えられないような溝や隔たりのようなものがあって、自分たちのすることはその隔たりの内側(あるいは外側)のものであると考えているのならば、それはもう民主主義自体を放棄しているようなものだ。

 例えば、選挙で投票することが政治的な行為であることくらいは、誰も疑わないと思うんだけれども、俺から言わせれば、日々、何を買うのかということも十分に政治的だと思う。安ければええわっていう根性だけですべての物をすべての人が求めて行けば、自然とそういう社会になる。こっちは客なんだから最も安い価格で最大の効果を上げろや!と病院でも学校でも皆がお客様気分で要求したりすると、どんなに息苦しくなるか想像してみて欲しい。逆に医者や教師が金儲けだけ考えていたら怖いでしょう。笑。どういうマインドで物を買ったり、あるいは職業に就いているのかってことは、投票みたいに真っ直ぐに政治に結びつかないかもしれないけれど、十分に政治的なことなんだ。俺たちの行動の集積が社会だからね。だから、政治と生活の境界はもっとぼんやりとしたもので、どこからどこが違うのかってのは、なんとも言葉にしにくいものだと俺は考えている。

 俺の音楽だってそういった生活の中から生まれるからね。電車に乗り、バスに乗り、ふらっと小汚い中華料理屋で炒飯を食べて、自分の作業場で曲を作って、自宅で歌詞を書いている。どんな街でどんな暮らしぶりなのかっていうのは、ものすごく作品に影響する。どこに行っても顔がバレてしまって大変、みたいな感じではやって行けない。笑。普通って言葉は難しいけれど、俺が考える普通の暮らしの中で、音楽や言葉は生まれているから。

 まあ、そう考えると、音楽も生活の中で生まれてくるわけだから、政治との間にだって大きな、はっきりとした隔たりなんてないんだよ。そこも、どこかで地続きなんだ。屁理屈ではなく、ね。

 そして、生憎、俺のやっていることは誰かを楽しませるため「だけ」にはない。100%のエンターテインメントかって言ったら違うし、でもエンターテインメントではないのかって聞かれたら、そういう要素もあると答える。エンタメの要素もあるし、粗野だけれども芸術の要素もあるし、文学の端くれでもあるし、表現でもあるし、プリミティブな魂の叫びでもあるし、もっとバカバカしい何かでもある。で、それらの間に、パキっとした隔たりは、これまた、ない。相撲が武道でスポーツで娯楽で見せ物で神事であるっていう、様々な要素を抱えているように。

 君がどんな音楽を選んで聴くのかってのも、どこかで社会に関わってる。どんな方法で聴くのかについても。どんな気分になるのかも、ね。

 すべてにおいて、俺たちは勝手に隔たりをでっち上げて、自分は溝の外側である(あるいは内側)と規定して無関心を貫いている。自分を守っている。マンションの自治会ひとつとったって、俺たちは参加することに億劫だ。面倒だからね。でも、誰かが代わりにやっている。なにかの不便が生じたときにだけクレームを出すのは簡単だよ。でも、本当は、住民には、住民の参加すべき場がある。それはみんなの大嫌いな、政治的な場所だよ。俺たちはこういう場所を徹底的に避けて、ここまで来た。

 まあ、俺たちというか、俺のやっていることを批判するのは問題ないんだけど。なんか嫌だなぁ、とか、いいと思う。嫌なら嫌でも。笑。嫌だなぁとか思う対称がいないのもなんか変な世界だし。人前に出てなにかしている人って十分に特殊だから、なにあれ!?とか言われて当然だとも思う。

 でも、いろいろな物ごとの間に、ありもしない境界線を引くのはやめて欲しいなぁ。選挙に出馬することと、コンサートを開くことが別の行為だってことは分かるけれども、そういう切りとり方の話をしてるんじゃないんだよ。人と人が影響し合って、僕たちの社会は成り立っている。もっと複雑なことなんだ。ふたつの間には境界を示すラインはないんだよ。

 8月30日。

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まったくもってその通りすぎて、
刺さる。


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2014-10-09 21:26:27 | 詩備忘録


 9月になってしまったというよりは、8月が終わってしまったという感じだろうか。もう社会人なので、というよりはある意味で一般社会から逸脱した生活をしているので、9月も4月もあんまり関係ないのだけれども、学生時代の名残りなのか9月1日と4月頭の仕切り線としてのエフェクトに背中を押されたりもする。怠惰な毎日になんとか推進力が欲しいのだけれども、難しい。だらだらとしてしまう。〆切みたいな、もうそこに仕上がっていないとどうしようもない、というようなフィクションも、作品の助けになることもあるから不思議だ。完成なんてしないのに。

 9月1日。

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最後の一文がすべてのような気がする。


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2014-10-09 21:23:48 | 詩備忘録


 コンビニへ行くと、婆さんがプリペイドカードを使っての会計にもたついていた。俺もよく分からんので、それは仕方がないとのんびり会計を待っているとコンビニの店員のオバちゃんが俺にむちゃくちゃ謝ってくるのであった。そうなるとなんか、俺が怒っているようになってしまって嫌だなぁ、と思っていると、案の定、婆さんが軽くパニックのようになりはじめて、プリペイドカードをどこにしまったから分からん、みたいな感じになってアタフタし始めた。それを見て、コンビニ店員は増々俺に謝るのだった。俺はまったく急いでないし、怒ってもいないのに、どうしてこんなにも謝られているのか全く理解できなかった。「大丈夫ですよ」とにこやかに受け答えをしても、「申し訳ありません」と土下座でもしそうな声色で謝られてしまうのだ。うーむ。参った。

 しばらくして、婆さんはなんとかプリペイドカードを発見して、会計を済ませた。こんな婆さんがプリペイドカードを自発的に使うなんてことはないだろうから、概ね、コンビニ店員が便利だとすすめたのであろう。なんか、大丈夫だよ!婆さん!!と声をかけたい気持ちだったけれども、言葉にならなかったので柔らかい顔をしておいた。

 会計は俺の番になった。レジには婆さんがあんなにまでして買ったパンがおかれていた。店員さんはそれに気づいて、婆さんを追いかけて行った。レジにはポツネンと俺だけが残ったのであった。9月5日。

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ハプニングは時に人を選ぶ、と思う。

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2014-10-09 20:19:58 | 詩備忘録


 見るからに弱々しい警備員のオッサンが足をさすっていた。どうしたんだろうかと様子を遠くからうかがってみると、家族連れの車に足を敷かれたらしい。運転していたお父さんは「どうすんだよ」と迷惑そうに足を敷いた被害者であるはずの警備員のオッサンに話しかけていた。明らかに、何か見下すような視線を俺は感じた。

 用事があったので、このトラブルに「どうしたんですか?」と入っていくことはできなかった。入っていっても、多分、警備員のオッサンは俺を追い払っただろう。そして、このトラブルはオッサンの泣き寝入りによって処理されたのではないかと、俺は想像している。客でもなんでも足を敷かれて泣き寝入りする理由はどこにもないけれども、客が店に電話して「あの警備員がおかしい」と吠えれば、警備員はクビにされてしまうかもしれない。ノイジーな客は強い。オッサンの弱々しい風貌は警備員に向いてないかも分からん。そんなこんなで、仕事がなくなってしまうわけにもいかないだろうから、よほどの怪我でなければ彼は黙っているのではないかと思った。

 俺の妄想なので、本当の結末は知らない。たいした怪我じゃないといいな。

 でも、あの家族連れのお父さんの迷惑そうな態度だけは忘れられない。9月6日。

*****

「ノイジーな客は強い」
かなしいけれど、本当にそうなのだ。
図々しくて、図太くて、
自分が世界の中心みたいに思ってる人が、
色々と得をする世の中になっている。

警備員さんの救いは、
ゴッチみたいな人がちゃんと見てくれていることだ。


ゴッチの日記 転載

2014-10-09 19:55:59 | 詩備忘録


 アジカンのプリプロが始まった。

 DIVIDEDという高級アンプが使いたくてレンタルしたところ、アツ(・シ・)ホリエのものが届いた。万年ボグナー生活のケンさんに使わせたところ、たいへんにヌケのいいサウンドになった。



 その後は、悪い意味で煮詰まったり、煮詰まったり、煮詰まったり、それが原因で俺の嫌味が炸裂したりしながら作業が進んだ。最終的には、様々なアイデアが発展したのだけれども、その扉を開くのが難しかった。

 バンドっていうのは個人が集まっているので、その個人の資質というのがバランスはともかく掛け合わさって、酸化なのか還元なのか知らんが化学変化のような瞬間を経て、作品が仕上がる。もとの素材、つまり個々がどうあるかっていうことが、とても大事だというか、それそのものでしかない。っつうことを忘れて、なんか大きな運動体の一部になってその運動の一部として適当に動くということも、こっそりできたりする。ある程度の活動歴があって、形が見えて来ると尚更だ。その形でいること意外にエネルギーが注がれなくなる。が、それをやられると困る。新しいものはできない。

 俺がアジカンに感動できるのは、自分の作った何かが凄いとか凄くないとかではなくて、他の3人のアイデアが俺を別の場所へ連れていってくれるからだ。それがなくなったらおしまいだ。本当におしまい。だって、バンドなんて、自分だけでは見ることのできない景色だけのためにやってるのだから。あるいは、自分だけでは感じることのないフィーリングとも言い替えられる。

 出来上がったアルバムを聴く人たちが何て言うかは分からない。俺は助平だから気にならないこともないけれども、こればっかりは、誰かの顔色をうかがうような作業じゃない。でもなんか、毎度、誰かに届くような確信を、新しいドアを空けたときに感じるんだよね。この見たこともない景色は、きっとどこかの誰かも、一緒になって感動してくれるんじゃないかって。

 ちょっとまたアジカンで頑張ってみます。9月11日。