後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔551〕矢部顕さんによる6年生対象の「倹約令の立て札」と「綿から糸を紡ぐ体験」授業です。

2022年12月17日 | メール・便り・ミニコミ
お馴染みの矢部顕さんによる地域の6年生対象の歴史授業の様子がメールで届きました。矢部さんのメール、授業のレジュメ、朝日新聞記事などを紹介します。

◆福田三津夫様
毎年のことなのですが、近くの小学校で6年生に日本の歴史、
江戸時代末期の授業をしました。
ついでにレジュメも添付します。

1時間目は、「倹約令の立て札」
小学校近くの旧家の倉から倹約令の立て札が発見された
(9年前)のですが、それを見せながら、倹約令はなぜ
発令されたか、についての講義です。

2時間目は「綿から糸を紡ぐ体験授業」
倹約令に、綿の商人は村に入ってもよろしい、と記載されて
いたのは何故なのか。
綿を栽培して、糸や布にして、売っていたことがわかる
のです。

子どもたちに自作の紡錘車をつくらせて、それを使って
綿から糸を紡ぐ体験授業です。
添付の朝日新聞記事は、倹約令の立て札のことは全く
記事にしてくれていません。
毎年、歴史で江戸時代を学ぶころ行っていたので、
以前にもお知らせしていると思います。
このところコロナで実施していませんでした。
                                 矢部 顕


●浮田小学校6年                                 2022.11.30.
「倹約令の立て札」からみえてくること
      講師・矢部 顕
はじめに
1. いつごろの立て札か
巳年の記述と内容から→安政4年(1857年)    <明治元年1868年>
1855年 安政2年 岡山藩倹約令御触書をだす
2. 立て札の内容
       沼村
  当村は水害が多く、百姓どもが困窮している。
  昨年・今年は特に~が水害ですべて無くなってしまった。
  このたび厳しく左の通り倹約を申し渡す。
一、木綿の布や毛綿以外の商人は立ち入らせてはいけない。
一、親しいかどうかに限らず、諸々の付き合い(贈り物など)はやめること。
一、御師による神社のお札の配布、浪人や物もらいなどは堅く断ること。
右の事を厳重に守るように。
        巳年八月  村役人
3. 沼の地形―水害って何?  (最近では、2018年7月、砂川堤防決壊による水害)
① 戦国時代  沼城(亀山城)
② 新田開拓 堀田 吉井水門 足踏み水車
③ 砂川の水路変更工事  延宝5年(1677年)から数年かけての大工事
効果 1678年8月5日の大雨―以前は水がぬけるのに80日、
今年は8日で水がぬけた、という記述『赤磐郡誌』
 ④  現在  大型排水ポンプ
        沼の人たちが交代で日夜ポンプを稼働
        稼働しているときは黄色の点滅ランプが見える
4. 稲作と綿花栽培
  稲作はいつからはじまったか 絵本『稲と日本人』(図書室にあります)
  年貢米
  水田の効用  主要食糧、環境保全、ダム効果、水平=土壌が流れない←→ミシシッピー川
布・衣類は何からつくられているか?    木綿、絹、麻、羊毛、化学繊維
木綿の布、毛綿―綿を買う商人は村に入ってもよいとは?
綿花栽培の最盛期―江戸時代
肥料  鶏糞、牛糞、人糞、油粕、干鰯、・・・・・    桶の普及
5. 立て札の効用―沼村は山陽道筋で人の往来も多かったので「現代の『防犯パトロール中』の札のように、目立つ場所に設置して、押し売りなどよそ者を寄せつけまいとする抑止効果も狙ったのでは」と推測(県立記録資料館館長)
6. なぜ倹約令が発令されたのか?
  黒船来航(ペリー来航)1853年
7. 江戸時代(1603~1867)とはどういう時代だったのか
① 約260年間、右肩上がりの無い時代
② 戦争のない時代―他国を攻めない、他国から攻められない
③ 日本文化の成熟、庶民レベルでの成熟

■「倹約令の立て札」と糸紡ぎ体験授業
                                                            矢部 顕
  江戸時代末期の「倹約令の立て札」が近所の旧家で発見(2013年)されたのですが、立て札ですから朽ち果てているはずが残っていたのにはほんとびっくりしました。
その後、その「立て札」を見せながら小学校(6年生)の歴史の授業を行いました。
 この「倹約令の立て札」の最初の文はこうです。
―当村(沼村)は昨年と今年の水害で百姓はたいへんに困窮している。(中略) そこで左記のように倹約を申し付ける。―(以下、条文)
 「立て札」に書かれている条文のひとつに「綿の商人以外は村に入ることを禁じる」というのがあって、沼村は商品作物の綿を栽培していたことがわかります。(沼村は、わたくしの住まいしているところで、今は岡山市東区沼という住所です)。
 江戸時代の綿栽培については、何十年かぶりに『カムイ伝』(白土三平著)を読み返し勉強しました。学生時代に読んでたいへん感激し、多くの友人に薦めた記憶があります。全巻を揃えていたのですが、あちこちに貸し出しているうちに、いつの間にか失くなってしまいました。いま読みかえしても凄い漫画、というか鋭い歴史書です。
 「倹約令」が江戸時代末期に何度も発令されたことは、ペリー来航と関係があることを初めて知りました。ペリー来航のようなことが、今後たびたび起こることを予想して幕府は各藩に対して三浦半島や房総半島の沿岸警備を命じたのです。各藩は兵隊を派兵するために出費を強いられますので、年貢の取り立てが滞ることを恐れたようです。それで 「倹約令」の頻繁な発令となったようです。
 「ペリー来航」は歴史で習いますが、「なぜペリーは日本に来たのか?」を習った人はいるのでしょうか? 
そのころ日本近海には200隻以上のアメリカの捕鯨船が操業していたが、目の前に見える日本列島の港に入港すれば水や食料が手に入るのに鎖国政策でそれが出来ない。アメリカの捕鯨業の利益のために、つまり当時のビッグビジネスのためにアメリカ政府がおこなった脅かしだったのです。
いまアメリカは日本が捕鯨をすることを非難していますが、当時は最大の捕鯨国だったのです。まぁ、そういうことをわたくしは小学校の日本史で語ったのでした。
 次の時間には、実際の糸紡ぎ体験です。綿から糸を紡ぎ、機織りで糸から布をつくり、布から衣服をつくる、という、江戸時代から昭和15年くらいまで行われていた村の暮らしの一部の「糸紡ぎ」を経験させました。
 各自にあらかじめ材料を渡しておいて自作した紡錘車(スピンドル)で糸紡ぎに挑戦しました。どのようにするのか実際にやって見せなければなりませんので、練習しましたが、コツをつかむまでけっこうたいへんでした。クラスで2,3人は初めての体験なのに上手にできる子がいて驚きました。
 江戸時代にこの辺りで綿を栽培したのは、綿から何を作るためなのか? 「綿飴をつくるためだと思う人?」と問うたら、ひとり手があがりました。冗談が通じる子だったのか、どうだか・・・・
 今年、はじめて畑に綿の種を蒔いてみました。いま1.5mくらいに成長し、花が咲き、実がなり、その実がはじけて、白い綿が出てきました。綿があらわれたときはなかなか感動的でした。
 綿の木を小学校の校舎横の花壇に移植して、綿が出来る様子を子どもたちが見ることが出来るようにしました。