久しぶりの矢部顕さんのメールです。じっくり目を通してください。
●福田三津夫様
いつ終わるともしれない酷暑の夏でしたが、すっかり秋らしくなってきました。
ご無沙汰していますが、お元気でお過ごしでしたでしょうか。私のほうは、9月にブドウの収穫、10月のお米の収穫、と1年中で一番忙しい季節です。
さて、―交流(むすび)の家の活動も息の長い活動ですねーと言ってくださった方がいますが、その長い活動を思い出す出来事が9月1日にありました。
それに関しての、資料を送ります。
◇9月1日のイベントの新聞記事
◇そのイベントに関しての小生の文章 復活「青い鳥楽団」(下掲)
◇らいを聴く夕べ ・青い鳥楽団演奏と講演 当日パンフレット(B5版20頁)
表紙、1頁、2頁のみコピーを送ります。(ほんとは20頁全部送りたいのですが)
<2頁のごあいさつの文章はすばらしい文章で、とても私などが書けるものではありません。山上憲一という仲間で友人のものです>
先月の2024年9月1日と、1968年6月24日の出来事です。 矢部 顕
復活「青い鳥楽団」
―近藤宏一さん作詞作曲の楽曲のCD化―
長島愛生園にかつてあったハーモニカバンド「青い鳥楽団」が再発見され、楽長・近藤宏一さんが作詞作曲した楽曲がCDとして復活されようとしている。
2024年9月1日、CD化に向けて、ボランティアの人たち20人くらいが集まって合唱し録音が行われた。録音は、青い鳥楽団の代表曲「あおいとり行進曲」。録音会場は愛生園の愛生会館。呼びかけ人は、NHK連続テレビ小説の主題歌や舞台音楽で人気の作曲家・阿部海太郎さん。
参加したのは、歌のプロではなく、かつて愛生園に「青い鳥楽団」があったことを知り興味を持った人たち。参加者の自己紹介を聞いていると、若い人が多く、「青い鳥楽団」が活動していた時のことを知っている人はいない。呼びかけ人の阿部海太郎さんも然りである。「青い鳥楽団」は1953年に結成され、1978年の解散まで園内外で公演を重ねた。活動を停止してから45年にもなるのだから、当然のことだろう。
ただ一人を除いて。その人とはわたくしである。
らい快復者社会復帰セミナーセンター交流(むすび)の家を4年の歳月をかけて素人の手で建設したワークキャンプ団体のフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)関西のメンバーだった。
交流(むすび)の家の竣工後、開所記念行事として<「『らい』を聴く夕べ」・青い鳥楽団演奏と講演>を開催した。1968年6月24日のことだった。
この演奏会は、愛生園盲人会「青い鳥楽団」が療養所や病院ではなく、一般市民の前で公演した初めての試みだった。大阪城に近い大阪府厚生会館大ホール(現在名・大阪府青少年センター)の聴衆は一般市民であふれたことは特筆されるべきことであった。強制隔離を定めた「らい予防法」が廃止(1996年)されるよりも、はるか昔の28年前のことであった。
演奏会当日のパンフレット(B5版20頁)が残っていて、近藤宏一さんのお葬式(2009年10月5日)の通夜のとき棺に入れさせていただいた。納めようとしたとき、近藤さんと縁の深い参列者の方々がそれを見てビックリされ、「コピーをさせてほしい」と懇願されたことを覚えている。
長島愛生園の夏祭りを盛り上げようと、毎年、FIWC関西はチンドン隊を編成して、園内を練り歩いた。チンドン隊のメインテーマ曲は「あおいとり行進曲」。作曲者の近藤宏一さんとは、毎夏、亡くなられる前年まで指導を仰ぎ交流を深めた。チンドン隊の活動は、コロナ禍で夏祭りが中止になるまで24年間にわたって続けられた。
「青い鳥楽団」とFIWC関西は、1968年から始まって2021年までの長きにわたるお付き合いだった。
「青い鳥楽団」を知らない世代が、阿部海太郎さんの再発見をきっかけに、病気で強制隔離された苦悩さらに目の不自由という絶望的な状況から、音楽に光を見出して生きがいとして歩んできた歴史を知ろうとしている姿を見て、私が嬉しくなってしまっている。
2024.9.20.
矢部 顕