読者の皆さん、こんな奇遇があるんですね。とてもびっくりしたけど、嬉しくなる話です。
「五日市憲法草案」って知っていますか。まずはその概略から見てもらいたいのです。手っ取り早くウィキペディア「五日市憲法」に登場してもらいましょう。
「五日市憲法(いつかいちけんぽう)は明治時代初期に作られた私擬憲法の一つ。1968年(昭和43年)、色川大吉によって東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)の深沢家土蔵から発見されたためこの名で呼ばれる。
別名を日本帝国憲法という。全204条からなり、そのうち150条を基本的人権について触れ、国民の権利保障に重きをおいたものである。五日市学芸講談会のうちの一人である千葉卓三郎が1881年に起草したとされる。国民の権利などについて、当時としては画期的な内容が含まれ、現日本国憲法に近い内容もみられる。
五日市憲法は東京都の有形文化財(古文書)に、深沢家屋敷跡(土蔵などが残る)は史跡に指定されている。前者は東京経済大学に保管されていたが、現在はあきる野市の中央図書館に移管された。」
ここにあるように、当時東京経済大学の教授だった色川大吉さんが指導する色川ゼミナールのメンバーが日本帝国憲法と書かれた私擬憲法を発見するのです。それは1968年、明治100年のことでした。最初は大日本帝国憲法の写しかと思ったようですが、とんでもない、現在の日本国憲法にも匹敵するような、あるいは、部分的にはそれを凌駕するような内容が記されていたのです。調べた結果、起草者は仙台出身の千葉卓三郎ですが、学習結社「五日市学芸講談会」の存在が大きく関わっていたことがわかってきたのです。そこで色川グループはこの私擬憲法を五日市憲法草案と呼ぶことにしたのです。
近刊『ガイドブック 五日市憲法草案』(副題、日本国憲法の源流を訪ねる、鈴木富雄著、日本機関誌出版センター、2015年3月31日発行)では、日本国憲法と対応させながら、五日市憲法草案の素晴らしさを説明しています。例えば、天賦人権説、平等権、個人の尊重、教育権、地方自治、国民主権などです。さらに草案では、「国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラズ又其罪ノ事実ハ陪審員之ヲ定ム可シ」とあり、部分的な死刑廃止と、陪審員制度まで触れているのです。現在では私擬憲法は100以上見つかっているそうですが、内容的にはトップクラスのものだそうです。
さて話したいことはここからです。
現在私は白梅学園大学での教育実習指導にあたって4年目になります。今年も5人の学生の実習生に付き添っています。そのうちの一人の実習校は開校140年のあきる野市立五日市小学校でした。学生と事前訪問をしたとき校長室に通されました。帰り際に校長先生が歴代校長の写真を指さして言いました。
「2代校長が五日市憲法に関わっていたのです。」
なんと、それが千葉卓三郎だったのです。現存する千葉の写真は1枚しかなく、そこにあったのはよく知られた肖像画でした。そして後からわかるのですが、初代校長が永沼織之丞で、やはり仙台藩の人で、千葉たち2,3人をつれて五日市に来たらしいのです。五日市学芸講談会のメンバーでした。いただいた学校要覧に2人の名前がしっかり記されていました。
2回目の訪問の時、五日市小学校の前身の勧能学校跡や五日市郷土館(2階に「草案」の資料を展示、天皇夫妻が訪れ、美智子さんが大いに評価したそうです。)、五日市中学校にある「草案」の記念碑を訪ねたのでした。
実は2010年にこの「草案」が発見された深澤家土蔵を清瀬・憲法九条を守る会の数人で訪ねているのです。案内してくれたのは故布施哲也さん、清瀬市議を4期務め、最後は一人会派「自由民権」を名乗っていた人でした。
【参考書】『「五日市憲法草案の碑」建碑誌』記念誌編集委員会、あきる野市教育委員会、1980年初版
「五日市憲法草案」って知っていますか。まずはその概略から見てもらいたいのです。手っ取り早くウィキペディア「五日市憲法」に登場してもらいましょう。
「五日市憲法(いつかいちけんぽう)は明治時代初期に作られた私擬憲法の一つ。1968年(昭和43年)、色川大吉によって東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)の深沢家土蔵から発見されたためこの名で呼ばれる。
別名を日本帝国憲法という。全204条からなり、そのうち150条を基本的人権について触れ、国民の権利保障に重きをおいたものである。五日市学芸講談会のうちの一人である千葉卓三郎が1881年に起草したとされる。国民の権利などについて、当時としては画期的な内容が含まれ、現日本国憲法に近い内容もみられる。
五日市憲法は東京都の有形文化財(古文書)に、深沢家屋敷跡(土蔵などが残る)は史跡に指定されている。前者は東京経済大学に保管されていたが、現在はあきる野市の中央図書館に移管された。」
ここにあるように、当時東京経済大学の教授だった色川大吉さんが指導する色川ゼミナールのメンバーが日本帝国憲法と書かれた私擬憲法を発見するのです。それは1968年、明治100年のことでした。最初は大日本帝国憲法の写しかと思ったようですが、とんでもない、現在の日本国憲法にも匹敵するような、あるいは、部分的にはそれを凌駕するような内容が記されていたのです。調べた結果、起草者は仙台出身の千葉卓三郎ですが、学習結社「五日市学芸講談会」の存在が大きく関わっていたことがわかってきたのです。そこで色川グループはこの私擬憲法を五日市憲法草案と呼ぶことにしたのです。
近刊『ガイドブック 五日市憲法草案』(副題、日本国憲法の源流を訪ねる、鈴木富雄著、日本機関誌出版センター、2015年3月31日発行)では、日本国憲法と対応させながら、五日市憲法草案の素晴らしさを説明しています。例えば、天賦人権説、平等権、個人の尊重、教育権、地方自治、国民主権などです。さらに草案では、「国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラズ又其罪ノ事実ハ陪審員之ヲ定ム可シ」とあり、部分的な死刑廃止と、陪審員制度まで触れているのです。現在では私擬憲法は100以上見つかっているそうですが、内容的にはトップクラスのものだそうです。
さて話したいことはここからです。
現在私は白梅学園大学での教育実習指導にあたって4年目になります。今年も5人の学生の実習生に付き添っています。そのうちの一人の実習校は開校140年のあきる野市立五日市小学校でした。学生と事前訪問をしたとき校長室に通されました。帰り際に校長先生が歴代校長の写真を指さして言いました。
「2代校長が五日市憲法に関わっていたのです。」
なんと、それが千葉卓三郎だったのです。現存する千葉の写真は1枚しかなく、そこにあったのはよく知られた肖像画でした。そして後からわかるのですが、初代校長が永沼織之丞で、やはり仙台藩の人で、千葉たち2,3人をつれて五日市に来たらしいのです。五日市学芸講談会のメンバーでした。いただいた学校要覧に2人の名前がしっかり記されていました。
2回目の訪問の時、五日市小学校の前身の勧能学校跡や五日市郷土館(2階に「草案」の資料を展示、天皇夫妻が訪れ、美智子さんが大いに評価したそうです。)、五日市中学校にある「草案」の記念碑を訪ねたのでした。
実は2010年にこの「草案」が発見された深澤家土蔵を清瀬・憲法九条を守る会の数人で訪ねているのです。案内してくれたのは故布施哲也さん、清瀬市議を4期務め、最後は一人会派「自由民権」を名乗っていた人でした。
【参考書】『「五日市憲法草案の碑」建碑誌』記念誌編集委員会、あきる野市教育委員会、1980年初版