逆順でたどる平安京の天皇たち
60代 醍醐天皇 聖王
元号 |
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先代 |
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次代 |
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誕生 |
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崩御 |
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陵所 |
後山科陵 |
諱 |
維城、敦仁 |
別称 |
延喜帝 |
父親 |
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母親 |
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中宮 |
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女御 |
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更衣 |
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子女 |
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皇居 |
京都検定的には、覚えておかねばならない名前のオンパレードだ。菅原道真は当然だが、その父菅原是善は5代の天皇に伝えた文章博士、母の穏子は五条后と呼ばれ長く後継者選定に関わり朝廷の安定に努める。子の源高明は安和の変で廃される。藤原基経は「阿衡の紛議」で有名。母の胤子は藤原勧修寺流の祖となる方だ。父の宇多天皇は夏に雪景色が見たいと絹織物で山を多い衣笠山の由来となった。小野東風・紀貫之もこの時代の文化人。
道真時平
世は、遣唐使廃止をきっかけに、国風文化の全盛を迎える時で三筆・三蹟の時代であり歌や歴史書も多く残る良い時代だった。
醍醐天皇の父は、一旦臣籍降下した後に天皇になった方で、「寛平御遺誡」をもって詳しく厳しく王者の作法を子の醍醐天皇に示した。しかし「昌泰の変」で道真を左遷した事で父宇多上皇の影響力を廃する暴挙に出た為に近年では学者による評価は微妙になっている。
結果として、第一皇子とその子を早くに亡くすなど、道真の怨霊に悩まされる。晩年はその対応に終始し政治どころではなかった。
醍醐天皇の逸話として「雪が降り積もって寒さが一段と厳しい夜に、諸国の民はいかに寒からんとて御衣を脱す」というものであるが、民の上を偲ばれ、旱魃の時 には、一般民に冷泉院の池の水を汲むことを許し、そこの水がなくなると、さらに神泉院の水も汲ませ、ここの水もなくなったとある。
天皇自身がリーダーシップを取って政治・文化の振興に努めたとして天皇の治世を絶賛しているが、菅原道真追放については「聖代の瑕」とするなど評価がまちまちだ。
この後京都の町を長く支配する怨霊の「天神信仰」を考えると、道真への遠慮もあり絶賛するのみという訳にはいかなかったのだろう。今でも京都では毎月21日を弘法の日、25日を天神の日として大きな市が出る。