アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

381 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 58代 光孝天皇 熟年の即位

2018-06-12 14:32:37 | 日記

 

58代 光孝天皇 熟年の即位

55歳の貫禄?

第58代天皇

在位期間
884年3月23日 - 887年9月17日

元号

元慶仁和

先代

陽成天皇

次代

宇多天皇


誕生

830年

崩御

887年9月17日

陵所

小松山陵(後田邑陵)

時康

別称

仁和帝、小松帝

父親

仁明天皇

母親

藤原沢子

女御

班子女王  藤原佳美子  平等子

子女

宇多天皇  ほか(后妃・皇子女節参照)

 

光孝天皇については、神皇正統記の記載がすべてを物語る。太古の昔、武烈天皇から継体天皇への皇位継承を例にして、徳の無い天皇の御代は正され徳ある正当な天皇が即位する。これが神国日本の姿だと長々と書いている。言うまでもなく徳の無いのは、陽成天皇。徳ある天皇は光孝天皇という事だ。また、この時代藤原基経が初の関白の地位について、この後基経の子孫だけが摂政関白につくという事で日本の国が定まったとしている。(勿論南北朝時代までの話だ。)

「武烈天皇」の画像検索結果「継体天皇」の画像検索結果「継体天皇」の画像検索結果26代継体天皇は、4代さかのぼっての即位。


つまり天照大御神の子孫と、天児屋命の子孫が手を組んでいく事になったのだ。事実藤原家以外に、摂政関白はついていない。またこの後も安和の変などで、政敵は陰謀にて早々に叩いているのだ。

さて、陽成天皇の御乱心で次期天皇選びとなった訳だが、3代さかのぼり仁明天皇の第3皇子の光孝天皇に決まる。すでに55歳の老年であった。その最大の理由は政権への意欲がなかった為である。候補者の皇子の中で、一番の人格者で質素で徳ある人物と書いてあるが、真の理由は無欲さである。

その証拠に、光孝天皇は自らの皇位は一代限りとし皇子全員を臣籍降下させている。(結果的には実子の宇多天皇が継いでいる)しかし即位が寿命を縮めたのか3年で崩御する。なお御室仁和寺は、光孝天皇の発願にて、宇多天皇の時代に創建した寺である。因みに年号を寺名にした例としては、延暦寺が有名で、江戸時代には寛永寺がある。

「御室」の画像検索結果御室桜と仁和寺五重塔

さらに御室とは、宇多天皇が出家後住まいとしたことから「御室」と呼ばれる。余計だが、「オムロン」の社名はここから来ている。創業家立石家の地元であった為だ。

使いやすいスイッチひとつの簡単操作の血圧計! 30回分の測定データ記録可能  大きなワンタッチスイッ...

なお、皇女・皇子は少なくとも40人以上残していて、絶倫の天皇でもある。しかし宇多天皇以外ほぼ全員臣籍降下させている。因みに皇后の班子女王との間には最も多い8人の子をもうけていて彼女も68歳の天寿を全うしている。

「翁媼」の画像検索結果

やはり生殖能力は最大の武器なのだ。次回は、徳の無い?陽成天皇。本当にそうか?

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380 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 59代 宇多天皇 最初の法皇

2018-06-12 08:06:27 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

59代 宇多天皇 新しい皇統 

ここから桓武天皇まであと10名。世代的には3世代の天皇となる。すべて偉大な大物天皇だ。

宇多法皇  仁和寺で出家 そこを御室と言った。


在位期間  887年9月17日 - 897年8月4日

元号   仁和、寛平

先代   光孝天皇    次代   醍醐天皇

誕生867年6月10日    崩御931年9月3日

諱  定省

別称   寛平法皇、亭子院

父親   光孝天皇    母親   班子女王

女御   藤原温子   藤原胤子   橘義子   橘房子   菅原衍子

更衣   源貞子   徳姫女王

子女   醍醐天皇   敦実親王    斉世親王    ほか(后妃・皇子女節参照)

皇居   平安宮

 クリックすると新しいウィンドウで開きます

父の光孝天皇は上記系図をご覧のように陽成天皇の系統から3代遡って即位している。天皇の皇子たちは皇位に就かない場合は、出家するか臣籍降下して源・平・藤・橘のいずれかの姓を賜る。時に藤原氏は、基経の時代だ。光孝天皇は、その基経を外祖父に持つ陽成天皇の弟貞保親王に遠慮して自らの血統に皇位を望まない証に親王すべてを臣籍降下させていた。後の宇多天皇は光孝天皇の子でありながら、臣籍降下し源定省(さだみ)といった。しかし光孝天皇崩御の後、皮肉にも即位する事となった。理由は、基経と貞保親王の母高子とが不仲であった為だ。基経は兄妹の高子と陽成上皇の復権を警戒したのだろう。この辺りは、逆順で書くと分かりにくいが、後日詳しく書く。

「藤原高子」の画像検索結果高子(恋多き女)

陽成上皇は、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と皮肉ったという。定省(宇多天皇)は、以前陽成天皇の臣下に仕えていたことがある為だ。

従ってこの親子2代の天皇は、基経に頭が上がらない。「阿衡の紛議」が典型である。当時重要官職につく場合、任命を受けても三顧の礼をもって受ける慣例となっていた。御存じの諸葛孔明の故事に倣っている。宇多天皇即位後、引き続き摂政の就任を請うた。2度断り3度目に受ける。その際、橘広相が上程した文章に基経が噛みついた。「阿衡の任」と表現した。阿衡とは特に管掌の無い実体のない地位の事だと就任を断って来た。単なるイチャモンだが、これでは宇多天皇が困る。それを承知で自分の存在をアピールして来たのである。半年に及ぶ国政の停滞を経て前言を翻し橘広相は左遷され決着する。藤原摂関家の朝廷をしのぐ権勢を象徴する事件として後世に残る。

しかし、宇多天皇日記には、「濁った世の中はこんなものだ。(基経に謝ったのは)自分の意志ではない・・・。」と愚痴っている。

「昌泰の変」の画像検索結果

 

なお、昌泰の変に際し宇多上皇は、直ちに内裏に向かい醍醐天皇を諫めようとするが時すでに遅く、道真の左遷が実行されていた。宇多上皇と菅原道真の余りにも深い関係が、醍醐天皇の嫉妬と、藤原家の政治的危機感を煽った。無念の道真は、

東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

の和歌を残して大宰府に赴き大日本最大の怨霊になった。

「昌泰の変」の画像検索結果

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