逆順でたどる平安京の天皇たち
54代 仁明天皇 兄弟げんかが根本原因
仁明天皇 |
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元号 |
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先代 |
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次代 |
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誕生 |
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崩御 |
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陵所 |
深草陵 |
諱 |
正良 |
別称 |
深草帝 日本根子天璽豊聡慧尊 |
父親 |
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母親 |
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女御 |
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子女 |
何度も書いてきたが、皇統は親から子に承継される時は平和だが、何かの事情で兄弟継承した場合は、ほとんどが揉めている。壬申の乱から始まり、薬子の変、当代の承和の変もそうだ。そしてその後歴史上の大乱は多くが兄弟げんかだ。南北朝の争いも、観応の擾乱も典型的なケースだろう。戦国時代には、長兄よりも優秀な者が力で家督を勝ち取った。
さて、仁明天皇は、嵯峨天皇の子だが、叔父の(嵯峨天皇の弟)淳和天皇から引き継ぐが、その淳和の子が皇太子となっていた。しかし藤原摂関家の良房の陰謀(陰謀とは冤罪を仕組む事・あるいはそうせざるを得ない様に追い込む事)で、承和の変が勃発する。淳和上皇と嵯峨上皇が相次いで崩御した事で、パワーバランスが崩れて良房の危機感から仕掛けたものである。
やはり、藤原氏は調べれば調べるほど好きになれない一族だ。
時代はまだ、薬子の変の余韻もあって平和が定着していない混沌としていた。年表から登場人物を挙げると、空海が亡くなっている。(入寂という)小野篁が遣唐使派遣に反対し遠島となっている。藤原緒継が「日本後紀」編纂。そして鴨河原の死骸5500余りを焼却したと記されているので飢饉の状態が恒常化していたと思われる。
まだまだ平安京は混とんとしていた。
別名深草天皇という。また、日本根子天璽豊聡慧尊という和風の諡号が贈られた最後の例である。
次は、淳和天皇。