元号 |
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先代 |
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次代 |
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誕生 |
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崩御 |
806年4月9日 平安宮正寝柏原大輔 |
陵所 |
柏原陵 |
諱 |
山部 |
別称 |
柏原帝 日本根子皇統弥照尊 天國押撥御宇柏原天皇 |
父親 |
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母親 |
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皇后 |
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夫人 |
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子女 |
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皇居 |
② 平安遷都
父光仁天皇と息子桓武天皇の即位の経緯でも分かるように、奈良時代の複雑な状況が背景にあった。簡単に言うと、天武天皇系と天智天皇系の確執である。御存じ「壬申の乱」が事の始まりだ。
中大兄皇子と大海人皇子と言えばわかりやすいか。兄である中大兄皇子と弟大海人皇子、同母同父の兄弟だ。(わざわざこう言わないと理解しにくい古代の姻戚関係)中大兄皇子の天智天皇の次は大海人皇子(天武天皇)で決まっていたが、天智の息子大友皇子にどうしても皇位を渡したくなった。遠慮して大海人皇子が吉野に逃げる。しかし天智の死後、大友皇子と大海人皇子の叔父甥の戦争となる。上図の系図の通り古代の姻戚関係は誠に理解しがたい。
まず、天武天皇の后の額田王は天智天皇とも関係があったと言われる。(恋敵対決)天智の娘持統は叔父である天武の皇后である。(持統の逆襲)さらに大友皇子は恋敵である天武と額田王との間の子(十市皇女)と結婚している。(叔父甥対決)など、誠に複雑な争いであった。
結果、天武天皇が即位しその後その系統で天皇を繋いだが、天智系との争いが延々と続く。その間の詳細はここでは書かないが、女帝の時代がしばらく続くのはこの辺の事情が原因だ。
加えて奈良仏教界の台頭が微妙な影響を及ぼして来たのだ。正当な皇統である(兄)天智系として即位した桓武天皇は、一切のしがらみから逃れたく思い遷都を思い立つ。文武天皇からここまで80年ほどの平城の都は、これより「南都」と呼ばれる。今では南都銀行という奈良最大の銀行に名が残るのみだ。
しかし遷都先に決めた長岡京建都中に大事件が起こる。
次回は、種継暗殺事件から・・・・。