アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

394 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 50代 桓武天皇 ②平安遷都

2018-06-27 08:59:57 | 日記

第50代天皇

在位期間
781年4月30日 - 806年4月9日

元号

天応  延暦

先代

光仁天皇

次代

平城天皇


誕生

737年

崩御

806年4月9日  平安宮正寝柏原大輔

陵所

柏原陵

山部

別称

柏原帝  日本根子皇統弥照尊  天國押撥御宇柏原天皇

父親

光仁天皇

母親

高野新笠

皇后

藤原乙牟漏

夫人

藤原旅子  藤原吉子  多治比真宗  藤原小屎

子女

平城天皇  嵯峨天皇  淳和天皇  伊予親王 ほか(后妃・皇子女節参照)

皇居

平城宮長岡宮平安宮

 

② 平安遷都

 「天武天皇家系図」の画像検索結果壬申の乱の構図

 

父光仁天皇と息子桓武天皇の即位の経緯でも分かるように、奈良時代の複雑な状況が背景にあった。簡単に言うと、天武天皇系と天智天皇系の確執である。御存じ「壬申の乱」が事の始まりだ。

「天武天皇」の画像検索結果「天智天皇」の画像検索結果「額田王」の画像検索結果額田王イメージ

中大兄皇子と大海人皇子と言えばわかりやすいか。兄である中大兄皇子と弟大海人皇子、同母同父の兄弟だ。(わざわざこう言わないと理解しにくい古代の姻戚関係)中大兄皇子の天智天皇の次は大海人皇子(天武天皇)で決まっていたが、天智の息子大友皇子にどうしても皇位を渡したくなった。遠慮して大海人皇子が吉野に逃げる。しかし天智の死後、大友皇子と大海人皇子の叔父甥の戦争となる。上図の系図の通り古代の姻戚関係は誠に理解しがたい。

まず、天武天皇の后の額田王は天智天皇とも関係があったと言われる。(恋敵対決)天智の娘持統は叔父である天武の皇后である。(持統の逆襲)さらに大友皇子は恋敵である天武と額田王との間の子(十市皇女)と結婚している。(叔父甥対決)など、誠に複雑な争いであった。

「持統天皇」の画像検索結果

結果、天武天皇が即位しその後その系統で天皇を繋いだが、天智系との争いが延々と続く。その間の詳細はここでは書かないが、女帝の時代がしばらく続くのはこの辺の事情が原因だ。

加えて奈良仏教界の台頭が微妙な影響を及ぼして来たのだ。正当な皇統である(兄)天智系として即位した桓武天皇は、一切のしがらみから逃れたく思い遷都を思い立つ。文武天皇からここまで80年ほどの平城の都は、これより「南都」と呼ばれる。今では南都銀行という奈良最大の銀行に名が残るのみだ。

画像平城京大極殿

しかし遷都先に決めた長岡京建都中に大事件が起こる。

次回は、種継暗殺事件から・・・・。

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