逆順でたどる平安京の天皇たち
56代 清和天皇 恋多き天皇 清和源氏の祖(絶倫天皇)
文徳天皇の第4皇子ではあったが、母が藤原北家の良房の娘明子(あきらけいこ・めいし)であった為、兄たちを差し置いて誕生と同時に立太子した。懐妊と同時に天皇の地位が決まっていたのだ。お后には、在原業平の塩釜の伝説で有名な高子(たかいこ)である。
当代随一の美人の恋多き8歳年上のお后とは、閨の相性も良く3名の子をなしている。母の明子と高子とはいとこ同士のライバルであった。なお、在原業平は歌人で有名だが、自身平城天皇の血筋である為出世の望みがない。従って、悲運の惟喬親王(外祖父が藤原氏ではなかった為天皇になれなかった)との交流や、処女であるはずの伊勢斎の宮恬子内親王との禁断の恋など艶聞が多い。当時の政権への批判的勢力の文化人の代表だったようだ。一部の文献には、陽成天皇の実父は、在原業平という説がある。(勿論母は皇后高子)案外、当時の人たちには知られていて陽成天皇の早期退陣と狂気伝説となったのかも知れない。
清和天皇については、応天門の変と多くの女性関係について書くしかない。
まず、応天門の変とは、御所正面の応天門が放火された。それは藤原良房の陰謀であるが、政敵の大納言伴善男が強く疑われた。結果伴善男は流罪となり、名門大伴氏は絶滅した。藤原氏の他氏排斥の象徴的事件の一つである。これらの事件はほぼ冤罪であり、藤原氏の陰謀の歴史の大きな1ページでもある。
女性関係については、8歳で即位し31歳で崩御するまでの間に、記録に残るだけで26名の女御と関わっている。生殖の能力を15歳前後とすると、15年余りの間の事だ。記録に残らない女性や残した子供も多かっただろう事を考えると、毎晩とっかえひっかえの恋であったろうと思われる。その後の武家社会の大きな旗頭である清和源氏の祖として大きな歴史上の功績である。
生殖能力で歴史に貢献する。素晴らしい事だ。歴代天皇の内、絶倫の王者は後水尾天皇だが、清和天皇は別名水尾天皇という、後水尾とは後清和の意味である。なるほどそういう事かと納得する。
筆者は、8歳年上の恋多き后高子に導かれ花開いたと考えている。やはり最初は年上が良いらしい。♡♡
元号 |
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先代 |
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次代 |
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誕生 |
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崩御 |
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陵所 |
水尾山陵 |
諱 |
惟仁 |
別称 |
水尾帝、貞観帝 素真(法名) |
父親 |
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母親 |
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女御 |
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子女 |
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皇居 |
生殖能力で歴史に貢献する。素晴らしい事だ。歴代天皇の内、絶倫の王者は後水尾天皇だが、清和天皇は別名水尾天皇という、後水尾とは後清和の意味である。なるほどそういう事かと納得する。筆者は、8歳年上の恋多き后高子に導かれ花開いたと考えている。やはり最初は年上が良いらしい。♡♡