アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

389 あちゃこの京都観光日誌 逆順の天皇史 52代 嵯峨天皇 ③天皇を取り巻く英雄達

2018-06-22 16:50:12 | 日記

Sakanoue Tamuramaro.jpg

 

嵯峨天皇の時代は、平安時代の名前通りわずかな平安の始まりだったと思う。薬子の変で藤原仲成以下を処刑して以来、死刑を禁じた。

以降数々の政変が発生するが、自殺か島流しで決着している。因みに、死刑が復活するのは、保元の乱である。そこから平氏・源氏との武家の果てしない殺し合いが始まる。

この嵯峨天皇の時代に活躍した英雄を二人紹介する。まずは、坂上田村麻呂。

歴史上最初の征夷大将軍である。任命したのは桓武の時代だが、武家の最高の称号になるこの呼称は、本来中央の朝廷になびかない蝦夷の征伐に任命された武官の最高の地位であった。当時今で言う東北地方の征伐は大きな政治的課題であった。現在の福島・岩手方面を支配していた蝦夷の頭目の阿弖流為を降伏させて都に連れて来た記録が平安初期の年表に書かれている。即刻処刑と記録されているが、田村麻呂は命は必ず助ける約束で降伏を許したのだ。しかし都の公家たちはその姿に恐れおののき助命を許さなかった。田村麻呂の苦悩がうかがえる。「この度は願いに任せて返入せしめ、其の賊類を招かん」と言う田村麻呂に、「野生獣心にして、反復定まりなし。たまたま朝威に縁りてこの梟帥を獲たり。もし申請に依り、奥地に放還すれば、いわゆる虎を養いて患いを残すなり」と公卿たちは応えたという。

清水寺にて「阿弖流為記念碑」

また、あまり知られていないが、田村麻呂は清水寺の開山者である。妊娠した妻に鹿の生き血を飲まそうと音羽山に入った田村麻呂は鹿を射殺した。見るとメス鹿でしかも子を宿していた。悔やんだ田村麻呂は、修行中の僧延鎮に勧められその地にお堂を立てた。延暦24年(805年)には寺地を賜り、嵯峨天皇宸筆の勅許を得て寺印一面を賜って公認の寺院となっている。「北観音寺」の寺号を賜ったとされるが、奈良興福寺の末寺の扱いであった。北法相宗として独立本山となるのは、なんと昭和の時代の大西良慶さんの時に至ってのことである。その大西良慶氏は「中興の祖」となっている。

Kiyomizu Temple - 01.jpg開山堂

現在の清水寺開山堂は田村堂とも呼ばれ、田村麻呂夫妻と延鎮の像が安置されている。

また、因みに音羽の滝下には、阿弖流為の石碑が建てられテいる。田村麻呂と阿弖流為の悲劇と友情を忖度して岩手県人会が建てた。

因みに田村麻呂は現在も音羽山奥の将軍塚に御所の方向に向いて都の平和を見張っている。「西野山古墳」である。

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