アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

477 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第17代 一条天皇

2019-01-04 10:34:16 | 日記

  平安京 17代 通算66代 一条天皇

 「一条天皇」の画像検索結果

在位 986年~1011

業績(事件) 紫式部・清少納言の時代

父 円融天皇 

別称 特になし

死因 病死

御陵 円融寺北陵

宝算 32歳

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一条天皇の御代は藤原家から見るのと、宮廷内の絢爛豪華なタレント達から見るのとでは全然違う。藤原摂関家は、長く不遇であった兼家の復権の時代である。娘の詮子が産んだ一条天皇の即位で状況が変化する。ただし、一条天皇の即位は先代花山天皇を陰謀で出家させた事で実現したのであった。そして一条天皇の践祚は7歳であった。

その皇后として実の孫娘が二人入内する。道隆の娘定子、道長の娘彰子である。一条天皇の周辺は藤原家でがっちり固められた。二人の皇后は、兄弟の代理戦争の様相を呈し、皇子誕生へ競争となる。しかし12歳で入内した彰子は受胎の可能性はなく、仲睦じい定子との間に男子が誕生する。敦康親王だ。立太子するものの廃される不幸な皇子である。定子が早世すると道長は念のためその敦康親王を、彰子のもとで養育させた。しかし道長の恐るべしは、彰子に男子が誕生するに及び敦康を見捨てる。

その後の皇位の継続の経緯は後に書く。さて、定子と彰子は懐妊争いだけでなく、宮廷サロンでの文化的競争も行っていた。清少納言は定子の女御であったが、彰子には和泉式部、紫式部の他に、赤染衛門など多くのタレントを抱え文芸サロンを構築していた。その方面でも彰子の勝利であったかも知れない。ただし彰子の人柄は謙虚でしとやかな美人だったと伝わる。その人柄は一条天皇も同様で、下位の者に寒いからと自らの着衣を与えたこともあったと伝わる。実家の権力争いを除くと誠に微笑ましい時代だのだ。

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476 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第16代 花山天皇

2019-01-04 10:17:10 | 日記

  平安京 16代 通算65代 花山天皇

 「花山天皇」の画像検索結果

在位 984年~986

業績(事件) 西国33か所霊場巡りの創始者

父 冷泉天皇 

別称 特になし

死因 病死?

御陵 紙屋川上陵

宝算 41歳

 

花山天皇を語る前に、藤原摂関家を整理する。

藤原北家が宮中貴族を独占してからは、親兄弟の一族内の闘争に明け暮れた。まだ藤原道長の独占的地位はこの時点(花山天皇)では確定していない。忠平、師輔と繋いで、伊尹、兼通、兼家の兄弟の競争が激化する。歴史を後から見ると兼家の息子3兄弟の争いとなり、その中で道長が勝利しその子頼通となり、時代は藤原全盛期となる事が分かっているが、花山天皇即位時点では、伊尹が摂関家の中心であった。

天皇家も摂関家も、親から子供へはスムーズに世代交代するが、兄弟継承は厄介だ。大概もめる事になる。

花山天皇は、16歳で践祚(即位)するもののわずか2年で陰謀によって退位する。それを「寛和の変」という。兼家の策略で出家を勧められたのだ。寵愛する中宮忯子が妊娠8か月で亡くなり嘆き悲しむ花山天皇に、兼家の孫の一条天皇を実現させる為、兼家の息子道兼が一緒に出家しようと騙したのだ。京の元慶寺において落飾したとたんに道兼は逃亡した。そこで初めて陰謀を知り花山天皇は悔しがるというのだ。(筆者は出家しても天皇の地位に留まっても良いし、法皇という地位もあったのにと思う。)実際花山法皇と呼ばれることになるが、実権はすでになく散々な晩年であった。典型例として「長徳の変」というのを紹介する。

いわば花山法皇襲撃事件だ。寛和の変で勝ち誇る兼家系の尹周がある家の女に通っていたところ、同じ屋敷のその妹のところには花山法皇が通っていた。通うとは通じていたという事だ。通じていたとは、関係していたという事だ。これを通い婚と言った。

ある日、尹周は自分の女にちょっかいを出されたと思い花山法皇を襲ったのである。何と矢で衣の裾を射抜いたのである。気の毒に花山法皇は恐怖のあまり御所で震えていたという。花山法皇はその後も、そちら?の方は、達者で、自らの乳母であった女性の娘とその子とを同時に愛したようだ。

ほぼ同時に出産した二人の皇子を、「母腹宮」「女腹宮」とよんだそうだ。

筆者は想像する。乳母というのは、乳を与えるだけではなく男性に目覚めた場合の性の手ほどきもしたという。従って、花山法皇は親子孫と3代に亘り肉体関係があったと思っている。誠にロマンあふれる天皇である。多くの淫乱の素養が伝えられているが、一方で、西国33か所観音霊場を整備するなど仏教への貢献も誠に大きい。

因みに、安倍清明はその花山天皇の退位を予言した事で、陰陽師としての名声を得たとされる。時代は誠に面白い時代だ。

もう一つ逸話を紹介する。奇行がいくつも記録されている天皇である花山天皇と父の冷泉天皇には、藤原元方の怨霊の影響が強くあったと言われている。冷泉天皇が即位するに当たり藤原摂関家の強烈な権力争いがあり、敗れた藤原元方が怨霊となりその影響で、怪現象が相次いだと記録されている。さらに花山天皇の絶倫伝説の信じがたい逸話を最後に書く。即位式にあたりその王冠が重いと言って脱いだとされる話や、なんとその即位式の最中に、玉座(高御座)の中で、その場で目に付いた女官と我慢できず事に及んでいたという話まである。この天皇の場合どこまで正気であったかは理解できない。そしていよいよ藤原全盛期になって行く。

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