⑰ 平安京 17代 通算66代 一条天皇
在位 986年~1011年
業績(事件) 紫式部・清少納言の時代
父 円融天皇
別称 特になし
死因 病死
御陵 円融寺北陵
宝算 32歳
一条天皇の御代は藤原家から見るのと、宮廷内の絢爛豪華なタレント達から見るのとでは全然違う。藤原摂関家は、長く不遇であった兼家の復権の時代である。娘の詮子が産んだ一条天皇の即位で状況が変化する。ただし、一条天皇の即位は先代花山天皇を陰謀で出家させた事で実現したのであった。そして一条天皇の践祚は7歳であった。
その皇后として実の孫娘が二人入内する。道隆の娘定子、道長の娘彰子である。一条天皇の周辺は藤原家でがっちり固められた。二人の皇后は、兄弟の代理戦争の様相を呈し、皇子誕生へ競争となる。しかし12歳で入内した彰子は受胎の可能性はなく、仲睦じい定子との間に男子が誕生する。敦康親王だ。立太子するものの廃される不幸な皇子である。定子が早世すると道長は念のためその敦康親王を、彰子のもとで養育させた。しかし道長の恐るべしは、彰子に男子が誕生するに及び敦康を見捨てる。
その後の皇位の継続の経緯は後に書く。さて、定子と彰子は懐妊争いだけでなく、宮廷サロンでの文化的競争も行っていた。清少納言は定子の女御であったが、彰子には和泉式部、紫式部の他に、赤染衛門など多くのタレントを抱え文芸サロンを構築していた。その方面でも彰子の勝利であったかも知れない。ただし彰子の人柄は謙虚でしとやかな美人だったと伝わる。その人柄は一条天皇も同様で、下位の者に寒いからと自らの着衣を与えたこともあったと伝わる。実家の権力争いを除くと誠に微笑ましい時代だのだ。