㉕ 平安京 25代 通算74代 鳥羽天皇
在位 1107年~1123年
業績(事件) 祖父 白河上皇を越えられなかった天皇
父 堀河天皇
別称 空覚
死因 病死
御陵 案楽寿院陵
宝算 54歳
鳥羽天皇の不幸は、
①賢帝と言われた父堀河天皇の早い崩御。②祖父白河上皇のあまりに長い執拗な院政。③祖父から押し付けられた絶世の美女で最初の皇后璋子との関係。④藤原摂関家との確執。⑤息子であり叔父?でもある崇徳天皇との争い。⑥後半生の愛妾美福門院得子とその子近衛天皇に先立たれた事、などである。
① は、前回書いた。
② は、白河上皇が76歳まで生き、そして鳥羽に退位と曾孫の崇徳天皇の即位まで口出しされた事だ。しかもその子(崇徳天皇)の遺伝子上の実父は、白河上皇その人である。日本史上最初に「院政」を確立した白河上皇については詳しく書いたが、ともかく異常な家族関係の中であった。
③ 璋子との関係は想像するしかないが、二人は実は崇徳以外に6人も子を作っている。祖父の寵姫と閨を共にし、むしろ鳥羽天皇が情事の作法を教わったはずだ。どんな気持ちで交わっただろうか?想像を絶する。曾祖父白河上皇からすでに女にされていた15歳の璋子が17歳の鳥羽天皇の閨の主導権を握り、いずれの時からは鳥羽天皇がリードして愛を育んだと思われる。
④ は 、摂関家筆頭の忠実を重用しその息子忠通を白河上皇に近かった為に排除しようとしたことだ。この辺りの確執が保元の乱に関係する。
⑤ は、特に近衛天皇が長生きしていたら崇徳上皇との最終決戦もなかったかも知れない。勿論何より、鳥羽天皇自身がもっと生きていれば良かったのだが・・・・。
なお、皇后は最初の待賢門院璋子、後半美福門院得子、そして藤原忠実の娘泰子も迎えている。3人の皇后は異例である。ただし泰子入内は藤原氏との戦略性が強く、その時39歳の泰子との間には子はいなかった。源氏・平氏の多くの武将たちが、御所を幾重にも警護する中での崩御であった。その死は、摂関家から政治の実権を天皇家に奪還したものの、保元の乱を招き、いよいよ武家を主役に押し上げる事になった。死後、鳥羽離宮の案楽寿院陵に愛妾美福門院得子と、そして愛息子近衛天皇と共に眠っている。