アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

502 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第32代 安徳天皇

2019-01-16 12:20:18 | 日記

 安徳天皇 涙なしには語れない

㉜ 平安京 32代 通算81代 安徳天皇

「安徳天皇」の画像検索結果安徳天皇 長楽寺蔵

在位 1180年~1185

業績(事件) 源平合戦へ 8歳で壇ノ浦に沈む

父   高倉天皇 

別称  特になし

死因  入水

御陵 阿弥陀寺陵(下関市)

宝算 8歳

 

筆者は歴史上もっとも不幸な天皇と認定する。平家物語は筆者のバイブルだ。吉川英治の新平家物語から始まり、あらゆる平家物語を読んできたが、作者や翻訳者の感情が最も入るのが「屋島・壇ノ浦」である。その中でも安徳天皇の入水場面は名文が登場する。文学者の腕の見せ所だ。そして読者は必ず泣く。「安徳」という最大限の諡号を贈られた天皇はどんな思いだったか?安(安らかな)徳(徳を備えた)天皇だ。ご本人は悲しいかな生まれたと同時に皇太子になり、2歳で即位。ご自身の意志どころか記憶にも残っていなかったと想像する。

野山を駆けて遊んだこともなく。恋愛も結婚も無論女性も知らず。当然、政治の何たるかも知らず、平清盛その人に存在そのものを支配された短い、本当に短い一生だった。

平家滅亡時の天皇は、平家の滅亡と共に瀬戸の海に入水した。その悲劇の場面を再現する。天皇が移動中、一時的に御在所とするところを「行宮」という。一の谷・屋島を経て今は、壇ノ浦の海上「御座船」が行宮である。祖母二位尼(平時子)に抱きかかえられ最期を迎えていた。8歳になっていた天皇は、「どこに連れられるのか。」と、問う。「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです。」と、言い聞かし、涙ながらに、船上にて、伊勢神宮に向けて遥拝し、そして西方浄土の方向に手を合わせ、二位尼が最後に「波の下にも都のそろう。」(ご安心ください、波の下にも都がございます。)と、海に飛び込む。

 

歴史上ただ一人入水自殺さされた天皇である。母の建礼門院は、長い髪の毛を源氏の兵に引っ掛けられ救われた。その後「大原御幸」により、後白河法皇に再開する。また、安徳天皇は、平安京時代における唯一の「遷都の詔」を発した天皇だ。平城京~平安京そして東京へと都が遷る訳だが、この時一時福原京(神戸)に遷都している。勿論、清盛の政治的判断だが、後白河上皇も三種の神器と共に移っているので、立派な遷都である。また、源氏に追われ京の都を放棄した時に、後鳥羽天皇がすぐ即位しているので、平家滅亡による安徳入水までの2年間は、天皇が2名存在する異常な事態でもあった。

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501 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第31代 高倉天皇

2019-01-16 10:18:13 | 日記

㉛ 平安京 31代 通算80代 高倉天皇

 「高倉天皇」の画像検索結果

 

在位 1168年~1180

業績(事件) 源平合戦へ

父   後白河天皇 

別称  特になし

死因  病死

御陵 後清閑寺陵

宝算 21歳

 

父後白河と清盛に翻弄される。

高倉天皇の最大のジレンマは、平家と後白河院との確執だった。

母が、後白河上皇の後半生に最も寵愛した女性である建春門院滋子(清盛の妻時子の妹)であった為、後白河院からは大変に愛された。本妻である中宮よりその後の寵姫をより愛するのは、世の常である。後白河からすれば15歳年下の滋子と間はまさに琴瑟相和す中であった。(肌が合う?)一方、高倉天皇の中宮の建礼門院徳子は清盛の実娘(従って天皇と中宮はいとこ同士)なので周りを平家で固められている。さらに、後の安徳天皇が生まれるとすぐに譲位を迫られるという複雑な立場になる。従って、後白河院と清盛の蜜月関係にある間は良かったが、「鹿ケ谷の陰謀」以降、両者の関係が決定的に壊れた後は、高倉院の身の置き場がなくなる。

しかし天皇の評価は高く、「神皇正統記」始め、いずれの資料にも徳深い天皇として書かれている。臣下にも誠実に接し、管絃の素養もあり歴代最高の天皇と絶賛している。在任中、厳島神社に天下平安の祈願に行幸するなど、善政に努めた。しかし、時世には逆らえず、以仁王(弟君)と源頼政の反乱から治承の大乱へと運命が変転して行く。母、建春門院がもう少し長生きしていれば後白河と清盛の関係が崩れる事もなかったが、高倉天皇の在位中、天皇15歳で亡くなる。建春門院滋子の死因は二禁(腫物)であるが、50歳の後白河院の悲しみは深く、そして平家との関係も終焉を迎える。そして高倉上皇も、激動の最中、21歳と若い崩御であった。平家滅亡を見ずに亡くなった事はせめてもの慰めか?

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番外 稀勢の里の美学

2019-01-16 08:53:21 | 日記

 「稀勢の里」の画像検索結果

稀勢の里について、書かざるを得ない。もう無理です。勝てません。しかし、日本人横綱としてどれ程の期待と希望を与えてくれたか。勝って希望をくれる相撲取りがいる中で、負けても希望をくれる相撲取りがいても良いではないか。勝って嫌われる白鵬と負けても好かれる孤高の横綱。彼は横綱昇進まで只の一度も休場はなかった相撲取りなのだ。真面目で実直な性格がここまで引退を躊躇わせた。本当の師匠の隆乃里が生きていれば相談もできただろうに、今の師匠じゃ判断出来ない。まさに孤高の判断が求められる。そこで提案、本場所で引退を宣言したうえで千秋楽まで出続けるのだ。負けても勝っても良いではないですか。彼の姿が神なのです。注連縄を腰に巻いた神の燐光なのです。連日大声援を受けつつ日本人横綱は、モンゴル勢に勝てないまでも一心に挑み引退するのだ。後ろ姿に涙を隠して、ボロボロの体と心を隠して去っていくのだ。

美学を見たい。辞めるな今日は!!  


8:52 速報 稀勢の里 痛恨の引退発表(涙)

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