㊿ 平安京 50代 通算 99 代 後亀山天皇(南朝)
在位 1383年~1392年
業績(事件) 南北朝統一へ
父 後村上天皇
別称 金剛心
死因 病死
御陵 嵯峨小倉陵
宝算 ?歳
後亀山天皇、・・・・・・いきなり筆先が止まる。まず生年月日が不明なのだ。いつも参考にする「歴代天皇総覧(中央新書)」には?~1424年となっている。ウィキペディアでは、1350年?となっている。生誕地も賀名生行宮と推定される。兄の先帝の長慶天皇とは、不仲であったという。強硬派の長慶に対して後亀山は穏健派で、南北朝和睦も視野に入れていた。そこに届いた義満からの条件は、神器の譲渡と両党並列(交互即位)だった。これを信じて統一に応じた。背景には長く吉野の地に隠棲状態であった南朝は経済的にはすでに破たんしていたのである。室町幕府内の内紛「観応の騒乱」の時は、一時的に北朝が南朝に降伏する動きもあったが、世は義満の登場で幕府の全盛期を迎えていた。唯一の忠臣楠木正成・正行はすでにこの世になく南朝の挽回は絶望的であった。
吉野から奈良興福寺、嵯峨大覚寺を経て天龍寺に入り、自分たちの存在意義である三種の神器を手放した。「明徳の和約」である。しかし、しかしである。自分の血統に皇位が戻らない(騙された)ことを悟った後亀山上皇は、再び吉野に籠る。その後、何度か南朝復活を目論むが、神器もなくゲリラ的な動きでしかなかった。
因みに、その後しばらく続く南朝の動きは、「後南朝」という。
1350年生まれとすると72歳まで生きたことになる。過酷な人生であっただろう。正式に99代天皇とされたのは、何と明治になってからであった。天皇の業績は、新続古今和歌集に3首載っているのみで何も記録されていない。
大覚寺に残る御真影は、天皇と言うより禅僧のような意志の強さがうかがえる。