アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

520 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第50代 後亀山天皇

2019-01-29 12:30:53 | 日記

  ㊿ 平安京 50代 通算 99 代 後亀山天皇(南朝)

 

在位 1383年~1392年

業績(事件) 南北朝統一へ

父   後村上天皇 

別称  金剛心

死因  病死

御陵 嵯峨小倉陵

宝算 ?歳

 「後亀山天皇」の画像検索結果

 

後亀山天皇、・・・・・・いきなり筆先が止まる。まず生年月日が不明なのだ。いつも参考にする「歴代天皇総覧(中央新書)」には?~1424年となっている。ウィキペディアでは、1350年?となっている。生誕地も賀名生行宮と推定される。兄の先帝の長慶天皇とは、不仲であったという。強硬派の長慶に対して後亀山は穏健派で、南北朝和睦も視野に入れていた。そこに届いた義満からの条件は、神器の譲渡と両党並列(交互即位)だった。これを信じて統一に応じた。背景には長く吉野の地に隠棲状態であった南朝は経済的にはすでに破たんしていたのである。室町幕府内の内紛「観応の騒乱」の時は、一時的に北朝が南朝に降伏する動きもあったが、世は義満の登場で幕府の全盛期を迎えていた。唯一の忠臣楠木正成・正行はすでにこの世になく南朝の挽回は絶望的であった。

吉野から奈良興福寺、嵯峨大覚寺を経て天龍寺に入り、自分たちの存在意義である三種の神器を手放した。「明徳の和約」である。しかし、しかしである。自分の血統に皇位が戻らない(騙された)ことを悟った後亀山上皇は、再び吉野に籠る。その後、何度か南朝復活を目論むが、神器もなくゲリラ的な動きでしかなかった。

因みに、その後しばらく続く南朝の動きは、「後南朝」という。
1350年生まれとすると72歳まで生きたことになる。過酷な人生であっただろう。正式に99代天皇とされたのは、何と明治になってからであった。天皇の業績は、新続古今和歌集に3首載っているのみで何も記録されていない。

 

大覚寺に残る御真影は、天皇と言うより禅僧のような意志の強さがうかがえる。

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519 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第49代 長慶天皇

2019-01-29 09:11:21 | 日記

 ㊾ 平安京 49代 通算 98 代 長慶天皇(南朝)

 「長慶天皇」の画像検索結果

在位 1368年~1383年?

業績(事件) 南北朝対立

父   後村上天皇 

別称  金剛理

死因  病死

御陵 嵯峨東陵

宝算 51歳

 

長慶天皇は何と、正式に98代天皇に認められたのは、大正の時代になってからだ。長く即位した形跡を認定されずにいたのだ。後醍醐天皇の直系の孫であることは間違いないのだが、吉野の山中で生まれ多くの人生を隠遁生活に終始した。

従って、御所はなくすべて「行宮」(行宮とは本来旅先・遠征先の天皇の行在所の事)となっている。また、即位の真偽についても、江戸時代に水戸光圀が「大日本史」の中で、即位を主張したが決まらず、結局明治以降の学者の判断まで待たねばならなかった。大正15年遂に、勅書をもって正式に98代長慶天皇として皇統に加わった。従って、在位中の業績や功績は何も残っていないが、次の後亀山天皇が南北朝統一に同意し、天龍寺に入った時、それに従わず終生吉野にいたと、伝わる。即位後、すぐ南朝のシンボル的武将楠木正儀が、和平派に転じ北朝に降った。あろうことかその正儀を主将に北朝方の攻撃にあって、数少ない配下の武将70名以上が打ち取られ、天野行宮から吉野に還幸する羽目に陥ったり散々な目にあっている。記録にはほとんど残っていない天皇だが、強靭な意志の強さがうかがえる。

あくまでも後醍醐天皇の遺言に従って、北朝に屈しなかったのである。

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番外 気にいらない事が多い

2019-01-29 08:49:27 | 日記

幼児虐待

実の父親が10歳の我が子を虐待で殺した。もうこんなことは終わりにしてくれ。筆者の家には3歳の孫(女の子)がいる。この子に手をかけることが出来ようか?連れ子に暴力を振るう後妻や義理の父という事件は多い。これも許せないが実の我が子を虐待するのはどの様な事情があるのだろうか。左翼評論家は、自らが虐待を受けた子が大人になった時、同様にわが子に虐待しやすいと同情的に言う。筆者は一片の同情もしない。厳罰で対処してもらいたい。

これは学校教育が破たんしているからに他ならない。道徳教育の手抜きが今日の社会の退廃を招いているのだ。問題意識のある小金持ちは公立学校にわが子を預けない。教師もそうだが友達となる同級生にどんな家庭の子がいるかが心配なのだ。

公立の教師、児童相談所などの行政職員は悲しいかな世間知らずである。行政手続きや現場の悲惨さは知っているが抜本的な解決策は持たない。自分の職務範囲を越えないし在職期間を無難に過ごしたいと思う。

従って、提言は「企業経験者を教師にする。」である。激烈な企業現場で部下教育に成功したエリートを抜擢して高給で教師に招請するのだ。一定の後企業に戻る。企業においても教師経験者は篤く処遇されるのだ。

学校教育が国家の最大重要事項とすれば、実社会の成功者を教育現場で活躍してもらうのは喫緊の課題だ。

(以上筆者の私見であり教育現場で苦労する教師たちの苦労もいくばかりかと思料する。)

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