アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

検定1級合格

2019-01-24 12:33:40 | 日記

緊急報告

筆者は、第15回京都検定試験1級に合格いたしました。弁護士資格並みの合格率との噂の難関試験に受かりました。

過去七回ほどの挑戦の結果であります。

今までの人生、 宅建や、神社検定3級、フィナンシャルプランナー、そして簿記2級、京都検定2級と、一流の資格はなく「2級男子」と呼ばれておりました。

今後は、国民の皆様?に恩返しの為、京都観光案内やガイドブック・歴史コラムなどの執筆に専念いたします。

今後とも閲覧のほどよろしくお願いいたします。


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番外 コラム

2019-01-24 08:56:16 | 日記

「後醍醐」の画像検索結果後醍醐天皇
コラム 両統分裂の経緯

 

  ①    後嵯峨天皇

       |

 (持明院統)   (大覚寺統)

 ②後深草天皇  ③亀山天皇

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 ⑤伏見天皇   ④後宇多天皇

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 ⑥後伏見天皇  ⑦後二条天皇

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 ⑧花園天皇   ⑨後醍醐天皇(南朝第1代)正式皇統

   |

 ⑩光厳天皇(北朝第1代)

 

なぜ、持明院統と大覚寺統の対立が始まったのか?ややこしいので重複するが改めて書く。88代後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇、第4皇子亀山天皇から話が始まる。兄弟で天皇位を継いだので、その次をどうするか?当たり前なら長兄の後深草の皇子に行くはずが、弟の亀山の皇子を皇太子にし、その後、後宇多天皇が誕生する。後嵯峨の遺言が曖昧で、荘園の相続については詳細に残しているのに、後継については明確にしていなかった。同母の兄弟でありながら母の大宮院(西園寺きつ子)も、やはり弟の亀山の血統に継がせたがった事から、亀山・後深草の仲は一層悪くなる。ここから治天(上皇として院政を行い実質的な権力者)、天皇、皇太子、場合によっては鎌倉将軍(この頃は源氏が滅んで宮将軍の時代)という主要ポストを争う事になる。当然、天皇が大覚寺統なら治天も大覚寺統、天皇が持明院統なら治天は持明院統に自動的に代わる。ただし皇太子は時の幕府が介入して両統てい立するようにした。また、経済的なバックとしての荘園も、全国100か所の大荘園群(長講堂領)を後嵯峨から相続した大覚寺統は全国200か所に及ぶ八条院領を後に得る。遂には、公家衆も当初はどちらにもつかずにいたが、両統に分かれて対立することになる。

さて、憤懣やるかたない持明院統の後深草は、北条得宗家の執権時宗に画策し自らの皇子を次期天皇(伏見天皇)にすることの約束を取り付けた。加えて、大覚寺統の亀山天皇の中宮の兄、西園寺實兼があろうことか、後深草の立場を支持する。(前回書いたが、中宮と亀山天皇の不仲が原因)こうして、徐々に複雑な事情が重なって行く。鎌倉幕府から見ると、王家分裂により権力の分散とその低下を狙ったものとも言われている。ちょうどこの頃には、藤原摂関家も分家を繰り返し、近衛家、一条家、冷泉家などに分裂している。古代から続く国家権力が歴史的転換を迎えていたのだ。世界的にも王朝が、兄弟、いとこ、分家と弱体化して滅ぶ例は枚挙にいとまがない。

さてどうなって行くのだろうか?

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514 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第44代 後伏見天皇

2019-01-24 08:54:11 | 日記

 平安京 44代 通算93代 後伏見天皇(持明院統)

 「後伏見天皇」の画像検索結果

在位 1298年~1301年

業績(事件) 両統対立激化

父   伏見天皇 

別称  持明院殿

死因  病死

御陵 深草北陵

宝算 49歳

遂に両皇統の大混乱の極致の時の天皇だ。実は、父の伏見天皇に至って、持明院統の天下に治まったかのような様相を呈した。院政・天皇・皇太子・鎌倉将軍のすべてを持明院統で占めたのだ。当時、「関東(幕府)申次」という重要な職務があった。当時の申次は西園寺實兼という公家で北条執権と申し合わせて次期天皇を決めていた。その實兼の妹が、大覚寺統の亀山天皇の中宮であったが、夫婦仲が悪く冷遇されていた為、大覚寺統の後宇多天皇の皇太子に持明院統の伏見天皇を推した。その皇太子もまた持明院統の後伏見天皇としたのだ。当然、持明院統の後深草の院政が続いた。この時点で、持明院統の完全支配が完成した。

その後の大覚寺統の反撃は次回書くが、事実上の後伏見天皇の出番は、譲位後上皇になってからである。後任天皇の大覚寺統の後二条が若くして崩御すると、弟の持明院統の花園天皇の時代には院政を始める。いわゆる治天の君となったのである。その後、一旦大覚寺統の後醍醐天皇の時代になるが、鎌倉幕府は、倒幕(謀反)の首謀者の後醍醐を廃し、持明院統の光厳天皇(後日北朝初代の天皇とされる)に成り再び後伏見は院政を行う。しかしすでに実権は発揮できず建武の親政以降、持明院統側の光厳天皇や花園上皇と共に京都を逃れ流浪の後、捕らえられ出家した。その流れは北朝となって行くが、正式な皇統にはならなかった。

以上書いて来て、ご理解いただけているか甚だ不安だ。要するに、禁中御簾奥深くにいらしゃるべき高貴な血統の天皇が、庶民もあり得ないような逃亡生活になり、野原に過ごしたのである。自らの足で歩き、矢を受け戦い逃亡した。歴史上、暗殺や誅殺された天皇もいるが、このように自らの責任ではないにも関わらず苦労された天皇は珍しい。

それでも記録に残るだけでも16名以上の皇子・皇女を残している。生殖力はやはり高貴な方の義務なのだ。一方、文化的業績は残っていない。(手元の資料を見る限り記載はない)陵墓は深草北陵。深草12帝のおひとりである。

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