アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

492 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第22代 後三条天皇

2019-01-09 08:58:49 | 日記

㉒ 平安京 22代 通算71代 後三条天皇

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在位 1068年~1072

業績(事件) 荘園整理令を出し天皇家の財務基盤を作った。

父 後朱雀天皇 

別称 金剛行

死因  病死

御陵 圓宗寺陵

宝算 40歳

 

後三条天皇を語る時、その頃の藤原摂関家の状況を書かねばならない。長く摂政・関白・太政大臣に藤原道長・頼通親子が就き、藤原北家の全盛期であった。しかし、頼通の政権の時代が長く勤務懈怠が目立ち始める。加えて、父道長の死後、弟の教通との確執が摂関家の弱体化につながる。決定的なのは二人とも天皇の祖父の地位にはなれなかった事だ。入内した娘に男子が生まれなかったのだ。

三条天皇を祖父に持ち、道長を曾祖父に持つこの天皇は、長期政権に飽きた朝廷の政治の実権を取り戻す絶好の環境にあったのだ。そして遂に、 83歳の頼道が死に、80歳の教通が死ぬ。その前年、残念ながら40歳で後三条天皇は崩御しているのだが、その天皇親政の環境は後三条天皇がすでに構築していた。後三条天皇は、姻戚関係のない頼通との確執の為、皇太子時代が20年間と長く、苦労をしたが即位後、報復的な人事は一切せず善政を行った。延久の荘園整理令や、「延久宣旨枡」の制定など画期的な施策を断行し、皇室の経済基盤の拡大に努めた。

これは、摂関家にとっては大打撃であり、一方農民からは高く評価された。「延久の善政」と言われる政治体制に摂関家は完全に無力化にされたのだ。神皇正統記にも、「有徳の君」とか、「延喜・天暦の治以来の業績」と称えている。白河天皇に譲位後、半年で崩御するが、これは院政を狙ったものではなく、病状の悪化が原因であった。

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