アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

498 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第28代 後白河天皇

2019-01-14 07:43:52 | 日記

 

㉘ 平安京 28代 通算77代 後白河天皇

「後白河」の画像検索結果

在位 1155年~1158年

業績(事件) 平治の乱から平家全盛へ

父 鳥羽天皇 

別称  法住寺殿

死因  病死

御陵 法住寺陵

宝算 65歳

私は、白河天皇、後醍醐天皇、そして後白河天皇を、3大策士天皇と見ている。そして次点は、後水尾天皇だろう。
後白河天皇は、天皇在位としてはわずか3年のことで、語るべき歴史はすべて上皇としてである。神皇正統記を見ると、「保元の乱」の記載から始まっている。ただし、崇徳や近衛と違って正当な血統からの即位であり「天命」であると評価している。鳥羽上皇との親子の確執から始まり、崇徳天皇との兄弟対決は保元の乱となり、平安京初の全面戦争となった。その後、平治の乱を切り抜け台頭する武士達とのつかず離れずの政治手腕は、特に信念を感じないものの結果的にはしっかり生き残っている。

源義朝初め、平家の残党たち、そして頼朝、義経へも追討の院宣を発した。政治的信念ではなく、都を占領する勢力に媚びる、言わば身の保全の為のものでしかないのであった。特に清盛とは、永遠のライバルであった。しかし崇徳天皇から始まり、息子二条天皇その子六条天皇、また同様に高倉天皇など、血族との確執は如何なる気持ちだったのだろうか。晩年は頼朝との確執を抱えながら、武士との最終決戦は強い皇子である後鳥羽天皇に継がれていくのである(承久の変)。平治の乱の勝利から、平家の全盛を生き抜き、鹿ヶ谷の陰謀を陰で操り、六波羅陥落以降、次々やってくる覇者達との確執を乗り越えて35年を越える院政を行った稀代の王者が後白河天皇であった

後白河天皇の文化的功績は、「梁塵秘抄」の著作に見られるように、「今様」の第1人者である事だ。8代勅撰集に見られるような「歌(和歌)」よりも数段低い位置づけの「今様」をメジャーに押し上げた。

親王時代、皇位継承の可能性が全くなかった後白河は、「遊びをせんとや生まれけん」とNHK大河ドラマに何度も出て来たが、とにかく遊びまくった。今様とは現代で言う「歌謡曲」である。庶民の中で流行ったものを、宮中で流行らせた。五木ひろしや郷ひろみの歌を、秋篠宮が日夜カラオケで歌うようなものだ。現に後白河は、『「十歳余りの時から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは三回あり、その内二回は喉が腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。待賢門院が亡くなって五十日を過ぎた頃、崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎夜歌った。鳥羽殿にいた頃は五十日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」(梁塵秘抄口伝集)現代訳』と、自ら語っている。もはや中毒状態だ。それを見て、父鳥羽上皇は、「即位の器量ではない」(愚管抄)と酷評している。平治物語でも、「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と、兄の崇徳天皇からも蔑まれている。

その遊び相手は、貴族にとどまらず遊女や傀儡など庶民の底辺にまで及んだ。(案外、世間の情報に詳しかったのはこのような情報源があったからか?)また、因みに、後白河は「片頭痛」持ちであった。法住寺殿に建てられた蓮華王院(三十三間堂)で毎年行われる「柳枝のお加持」は、特別な秘法を行った柳の枝に水を浸し、患者の(信者)の頭上に振りかざす秘法だ。これは、後白河の頭痛平癒の祈祷が原点となっている。また、近くの今熊野観音寺でも「頭痛封じ」を行っている。後白河は、今様を徹夜で歌う日々を送りながらも頭痛に悩んでいた。「遊びをせんとや生まれけん」と、能天気に過ごす時にも政局を考え、自らの政権の維持に悩み次の一手を考えていたのかも知れない。

なお、皇女・皇子は記録上は、18名ほどだが庶民レベルの女性を相手に「鬱憤」と「お種」を振り撒いたのだと思う。贈名の後白河は、政権・女・遊びいずれも白河天皇の迫る事から因むのだろうか。

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする