㊽ 平安京 48代 通算97代 後村上天皇(南朝)
在位 1339年~1368年
業績(事件) 建武の親政から南北朝対立
父 後醍醐天皇
別称 特になし
死因 病死
御陵 檜尾陵
宝算 40歳
醍醐・村上天皇の時代(延喜・天暦の治)に憧れた先代後醍醐天皇が、自ら追号に選んだ。従って、当然次代の諡号は、後村上天皇となる。しかし二人とも終生戦場に身を置くことになる。
後醍醐については詳しく書いたが、後村上天皇は、多くの兄弟親王を戦場や暗殺によって亡くし、くしくも南朝2代目の地位を継ぐことになった。吉野から京都に還幸する事10回に及び、結局都から遠く離れた地で生涯を終える。
後醍醐天皇第7皇子の義良(のりよし)親王が、後の後村上天皇だが、わずか5歳で北畠親房の子顕家と共に奥州多賀城に赴任していた。東北地方の不穏な動きをけん制する為、遠く陸奥の地に朝廷の権威を置いたのだ。結果、建武の親政の大混乱の戦場から離れていた為命を保った。その後、尊氏の謀反により比叡山に戻り、そこで元服する。一旦多賀城に戻り、そこも襲撃され、各地で戦場を潜り抜け吉野に至る。その後またまた多賀城に戻る時に、伊勢沖で船が難破して急死に一生を得て吉野に戻り、そこで立太子する。すぐに高師直の襲撃を受けて紀伊に逃れる。しかし「観応の擾乱」(足利兄弟と高師直などの身内の争い)により尊氏・直義が南朝に降参し京都を目指す。しかし尊氏の子義詮に反撃され賀名生に逃れる。この間10回京都還幸を果たすも生涯戦場にいて、現在の大阪河内長野辺りで崩御した。
これが天皇の生涯だろうか、元は父後醍醐天皇の政策の失敗によるとは言え、中世の動乱に翻弄されただけの御生涯であった。
尊氏・直義・義詮そして楠木正成・正行、北畠親房・顕家などの太平記に登場の英雄豪傑が活躍した歴史の大節目にいた天皇だったのだ。天皇の死の前後にみんな世を去り、時代が大きく転換するその前夜にいたことも間違いない。なお、この間京都周辺は、大地震にも見舞われ、飢饉も続き民衆の困窮は窮まっていた。世間は地獄の様相を呈していたのだ。