㉓ 平安京 23代 通算72代 白河天皇
在位 1072年~1086年
業績(事件) 院政の始まり
父 後三条天皇
別称 六条帝
死因 病死(急性膵臓炎)
御陵 成菩提院陵
宝算 77歳
白河天皇は、父後三条天皇の第一皇子で二十歳の時に、父の病いが重くなり即位した。後三条天皇在位中、藤原頼通から弟教通の時代だったが頼通兄弟に有力な男子が出来ず、藤原摂関家の支配が弱体化している。白河天皇の中宮には公家源氏の娘がなっているので外祖父の地位も藤原氏が確保できていない。一方この間、皇位継承は親子間で平和に繋いでいた。世の移り変わりは必ず来るのだ。さて、白河天皇を書くには、まず「三大不如意」を紹介しなければならない。「鴨の水、双六のサイコロ、比叡の山法師。」天皇の意の通りならないものだ。当時の鴨川は暴れ川で、しばしば氾濫し多くの死人を出した。天候はどうにもならない。また、サイコロは言うまでもなく確率の問題だ。どちらも何人も意のままにならない。一方比叡の山法師は、しばしば御輿を担いで朝廷に強訴に及んだ。白河天皇の最大の悩みの種だったのだ。実際、年表で確認すると白河天皇即位早々1073年の6月には『京都大洪水』の記載があり、2年後の6月にも同様の記載があり現在のような梅雨時のゲリラ豪雨があったものと思われる。また、強訴については毎年のように記載があり、1092年9月には延暦寺僧徒による訴えで高級公家が流罪になっている。また、比叡山と奈良興福寺の争いや、天台宗の寺門派と山門派の争いで京都を戦場にする有様だった。
しかし、この例え話は、白河天皇の権力の強さを示すもので、これ以外はすべて思い通りに出来た証である。
さらに、女性も思いのままにしたと言われる。天皇の最大の仕事である生殖活動の為には、宮中内では常にお相手に不自由しないようになっている。ただ、中宮の賢子との仲は睦ましくその間は多くの女性と交わった記録はないが、その死後は堰を切ったように、手当たり次第だったようだ。しかも自分の寵姫を次々に配下に差し渡した。下級公家の女御でも自由に愛し、しかも有名な「祇園女御」などは平忠盛に差し渡した為にその子清盛は、そのお種と言われることになる。寵姫を何と孫の鳥羽天皇に差し渡し、その結果の崇徳天皇の悲劇は後日詳しく書く。お分かり頂けるものと思うが、つまりやりたい放題だったのだ。
また奔放な女性関係と併せて男色も好む傾向があり、近臣として権勢を誇った多くの臣下は男色関係における愛人?出身といわれる。宮中での出世はまさに体を張っていたのだった。セクハラ・パワハラ絶好調の時代だ。
一方白河上皇は信心深く六勝寺(勝のつく6寺院)などの建立に尽力したが、庶民の負担は重く後生の評価は厳しい。肖像画はやはり絶倫男子に見える。ここからは各天皇にドラマがあるのだ。