52 平安京 52代 通算 101 代 称光天皇
在位 1412年~1428年
業績(事件) 病弱
父 後小松天皇
別称
死因 病死
御陵 深草北陵
宝算 28歳
自らの血統を残せなった天皇は、病弱で奇行多い天皇とされることが多い。兄弟姉妹に皇位を譲る事が出来ればまだ良いが、いとこやそれ以上さかのぼっての皇統に引き継ぐ場合は、新血統の正当性を主張したい余り、前天皇を貶める事が多い。神代では、武烈天皇がその例だが、平安以降でも冷泉や陽成などいくつかその疑いがある。歴史は、今目の前にいる権力者の為に書かれるものである。
今回の、称光天皇は後光厳天皇の直系だが、その父光厳帝まで遡り8親等離れた伏見宮に引き継がざるを得なかった。
後小松天皇の第一皇子であったが、生来の病弱ですぐに第二皇子の小川宮を後継者に決めていた。その為、父後小松上皇とはずっと不仲だったようだ。その間、朝廷内部を調停したのは室町第4代将軍義持である。まだ幕府や将軍がしっかり権力と信頼を得ていた時代であった。残念ながら称光天皇に業績的な記録はなく、以下の話が伝わるのみだ。
太刀や弓を好んでいた為、金のムチで女官や近習をしばしば打ち据えた。17歳の時、愛した内侍が妊娠した時、自分の子ではないと言い張った。いずれも大罪ではないが天皇の奇行としては残念な話だ。
いずれにしても、後継者をつくることを唯一の目的に生殖活動を強いられる天皇が、さほど性欲の強くない場合どれほどのストレスか。性欲はありながら配偶者以外の女性に恵まれない我々現代の男性には理解できない。
なお、追号は、48代称徳天皇 49代仁光天皇から一文字ずつ取っている。50代は絶倫の桓武天皇なので皮肉な追号と言わざるを得ない。