アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

516 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第46代 花園天皇

2019-01-25 11:49:40 | 日記

 平安京 46代 通算95代 花園天皇(持明院統)

 「花園天皇」の画像検索結果

在位 1308年~1318年

業績(事件) 両統対立が決定的に

父   伏見天皇 

別称  萩原院

死因  病死 脚気(心不全)

御陵 十樂院上陵

宝算 52歳

花園天皇は、自ら親政を行えた時期はない。即位時は、父の伏見上皇の院政、後半は、兄の後伏見上皇の院政だった。そして盟約通り持明院統の花園天皇は、大覚寺統の後醍醐天皇に譲位する。その後の混乱はこれから詳しく書く。

持明院統の天皇に戻れば自ら院政の希望もあったが、戦乱の世に突入し政治の手腕を振るう事は叶わなかった。それでも甥の光厳天皇を熱心に教育したらしい。

しかし、この天皇の大きな功績は二つある。仏教への関心が深く、特に禅宗に帰依し宗峰妙超や関山慧玄のもと現在の妙心寺を創建した。算盤面と言われる経営上手な妙心寺は、広大な勢力を誇る臨済宗の大本山になる。その礎をつくった天皇だ。また、自らの日記「花園院宸記」全7巻を残している。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての貴重な一次資料となっている。異属蜂起の相次ぐ世情にあって、ひたすら自重し、文化的・宗教的活動に終始し高いレベルに達したとどの資料にも伝わる。世が世なら聖徳ある天皇として評価されたはずだった。なお、「神皇正統記」では、『実父伏見天皇の崩御の時も喪に服さず、これは前例のない事。』と、こき下ろしている。南朝方親房公によって不当におとしめられているのだろう。

52歳まで宝寿を全うしたが、南北朝の統一は見られなかった。

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515 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第45代 後二条天皇

2019-01-25 08:39:51 | 日記

 平安京 45代 通算94代 後二条天皇(大覚寺統)

 「後二条」の画像検索結果

在位 1301年~1308年

業績(事件) 両統対立激化

父   後宇多天皇 

別称  特になし

死因  病死

御陵 北白川陵

宝算 24歳

 

改めて、この前後の天皇を整理する。

88代 後嵯峨天皇から以降、89代 後深草天皇(持明院統)90代 亀山天皇(大覚寺統)

91代 後宇多天皇(大覚寺統)92代 伏見天皇(持明院統)93代 後伏見天皇(持明院統)

(今回)94代 後二条天皇(大覚寺統)95代 花園天皇(持明院統)

 

この天皇の最大の特徴は、在任中5名の上皇が存在した事だ。89代から93代まで5代に亘るお歴々が君臨していた。ご自身が大覚寺統なので、亀山上皇や後宇多上皇の院政であった。当時の常識として早々に譲位して、上皇として院政を行う事で権勢をふるうのが当たり前であったのだ。この時代以前や、今後戦国時代のように在位期間が長く上皇になれず崩御してしまうのは、即位の儀式を行う財力もなくなっていた為という事だ。

後二条天皇は、持明院統の天皇が2代続いたことから、祖父亀山上皇が鎌倉幕府に強く申し入れた結果であった。事実上南北朝時代のような様相を呈し、世間は

「天の下の人、又押し返し、一方に靡(なび)きたる程も、さも目の前に移ろひ変はる世の中かな」

と、世相を嘆いている。国民の幸せのみを願う皇室が、自らの皇位を争うとは嘆かわしいとでも言いたかったのだろう。幕府は北条得宗家の権威も落ちた10代執権師時の時代で、元寇の後の幕府の衰退の兆しも始まっている、そんな時代の天皇だった。

在位中、「後二条院歌合」という歌会・歌合を度々催すなど、文化的貢献は多く、自ら「後二条院後集」を残している。

一方、天皇在位中後宇多上皇の指示で 「新後選和歌集」を編纂しているが、政治的色彩が強く大覚寺統の正当性を主張する政治的行為と言われている。何につけても、両統の対立の中で翻弄された。24歳の短い人生だった。墓所は北白川陵である。

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