大覚寺統(誤)
持明院統(正)
後深草天皇は、持明院(仙洞御所の事)統でした。
㊵ 平安京 40代 通算89代 後深草天皇
在位 1246年~1259年
業績(事件) 大覚寺統の祖(両統対立の原因をつくる)
父 後嵯峨天皇
別称 常磐井殿
死因 マラリア
御陵 深草北陵
宝算 62歳
① 後嵯峨天皇
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(持明院統) (大覚寺統)
②後深草天皇 ③亀山天皇
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⑤伏見天皇 ④後宇多天皇
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⑥後伏見天皇 ⑦後二条天皇
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⑧花園天皇 ⑨後醍醐天皇(南朝第1代)正式皇統
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⑩光厳天皇(北朝第1代)
諸悪の根源?は、後嵯峨天皇である。今回の後深草天皇には何の罪もない。後深草は4歳で即位し17歳で上皇になった。天皇在位中は、完全に後嵯峨上皇の院政である。特に自らの意志で残した功績はない。書くべき事は、二つだけ。
まず、3代後の伏見天皇の時に、やっと自らの院政を行い、「治天の君」の地位を得る。その皇太子、鎌倉将軍(皇族から将軍を出していた)とすべて自分の系統(持明院統)にすることが出来た。2番目は、膨大な荘園を相続した事だ。後白河上皇の皇女、宣陽門院が相続した「長講堂荘園」のほぼすべてを、父後嵯峨から相続した。後嵯峨は、皇位という権力は、弟亀山天皇に相続したが、経済的には兄後深草天皇に譲っている。その後の持明院統の経済的基盤がここにある。しかし、わずか2年で出家している。
なお、後深草天皇は、仁明天皇の異名深草天皇に由来している。勿論、仁明天皇の父は嵯峨天皇だ。いずれも御陵が深草にある。また、後深草は、「ごふこうさ」と読める。「御不幸さ」と同音なので、「後(のち)のふこうさ」と読むのが通例だ。昔の人は、「意味の異なる同音」を物凄く意識していた。
㊴ 平安京 39代 通算88代 後嵯峨天皇
在位 1242年~1246年
業績(事件) 大覚寺統の祖(両統対立の原因をつくる)
父 土御門天皇
別称 寛元帝
死因 不明
御陵 嵯峨南陵
宝算 53歳
81安徳天皇 ― 守貞親王 ― 82後鳥羽天皇
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86後堀河天皇 83土御門天皇 ― 84順徳天皇
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87 四条天皇 88後嵯峨天皇 85仲恭天皇
直前の系統を書いて見た。時代は平家滅亡から、鎌倉幕府、承久の変(後鳥羽上皇が鎌倉幕府転覆を企て「お上、ご謀反」と言われた。謀反とは本来天皇に対して行う行為だったのに・・・・。)という激動の時代が見えて来る。後鳥羽・土御門・順徳の3人が、遠島となった。さらに仲恭天皇は即位の形跡が不確かだ。(明治になって正式に皇統に加わった。)ここで、ポイントは幕府は、長く後鳥羽の血統に皇位を継がさなかった事だ。当然だ、それがやっとその正統に戻ったのである。
今回は、「神皇正統記」(北畠親房公)の記載に基づき書く。言うまでもなく南朝の論客である北畠親房は、この経緯をどのように見ていたか。
まず、後醍醐の「建武の親政」は、後鳥羽の「承久の変」で、実現できなかったことを遂に実現した快挙であるという結論である。従って、正統である後嵯峨天皇の即位は、「神意に従い。」と言っている。天命であり、正理であるとも言っている。そして、その決定を決断した執権北条泰時を絶賛している。父の義時を酷評する一方、後嵯峨天皇を実現した泰時に対しては、「心が正しく、政治は質素を旨とし他人を大切にして驕ることなく、公家の御ことを重く考え、荘園領主の悩みを無くし、風の前に塵が無いように世の中はすっかり落ち着いた。」と、書いている。
北条政権は、この泰時の「徳」をピークにして最後の高時に至って滅ぶべくして滅んだと言っている。南朝の正当性を書いたものなので当然だが・・・・・。後嵯峨天皇の業績もさることながら、「天皇の皇位というものは、天皇の御譲位に任せるものである。」「臣下のものとしては、帝を尊敬し、民を慈しみ、天地を恐れ謹んで、月日の照らすのを仰ぐについても心が不浄であることを恥ずかしく思い、・・・。」「我が国は、神明の誓いがあらたかで、上下のわきまえも定まっている。」などと、皇統の正統を謳っている。
この後嵯峨天皇の章では、神皇正統記の本筋を現わしている。作者にとって最も重要な章なのであろう。また、後嵯峨天皇の即位にあたっては多くの奇瑞があったと、その神秘性も書いている。因みに、息子後深草が病気なので、仕方なく亀山に譲位したのだと、大覚寺統(南朝)の正当性を強調している。
歴史とは、見る立場によってこれほど違うのか?