㊼ 平安京 47代 通算96代 後醍醐天皇(大覚寺統 南朝)
在位 1318年~1339年
業績(事件) 倒幕・建武の親政
父 後宇多天皇
別称 吉野院
死因 病死(急性肺炎) 憤死?
御陵 塔尾陵
宝算 52歳
とうとう中世最大の事件、「建武の親政」の主役、後醍醐天皇までたどり着いた。
88代 後嵯峨天皇から以降、
89代 後深草天皇(持明院統)
90代 亀山天皇(大覚寺統)
91代 後宇多天皇(大覚寺統)
92代 伏見天皇(持明院統)
93代 後伏見天皇(持明院統)
94代 後二条天皇(大覚寺統)
95代 花園天皇(持明院統)
96代 後醍醐天皇(大覚寺統)と、皇位を継承して来た。
こうして見ると見事に平等に交互に継承は行われている。すべてが鎌倉の執権北条家の裁きによって来た。次は、持明院統の天皇のはずだった。さらに、後醍醐天皇は繋ぎの天皇であって、実は、後二条天皇の皇子、邦良親王が皇位継承者だったのが、幼少であった為に、その成長までの繋ぎの天皇に指名されたのだ。
従って、後醍醐天皇は、自分の血統の親王に皇位継承させることが無いはずの天皇だったのだ。結局二重の意味で皇位の継承は自分の意のままにならない状況にあった事が、まず大前提である。
一方、世情は困窮の極みにあった。後醍醐天皇即位の1318年前後に、鎌倉に2度、京都には4度の大地震の記録が残る。また毎年のように長雨の被害や台風の被害が書かれてある。「河合出書房」(日本史年表)比叡山や東大寺の僧兵がしばしば神輿を奉じて直訴に及ぶが、幕府はすでに北条最後の執権高時の時代で、政権能力はなかった。
京都周辺には、倒幕の機運が高まっていたのだ。天皇親政の理想に燃える後醍醐天皇にとっては自分の血統に皇位を戻す為にも、やはり倒幕しか方法はなかった。
そして遂に、正中の変を引き起こす。
後醍醐天皇の業績に対する評価は、大きく分かれるところだろう。明治維新後、特に太平洋戦争に向かう「皇国史観」の機運高まる時代には、英雄楠木正成、逆賊足利尊氏の歴史観のもと、後醍醐天皇の功績への客観的評価はあやふやにされたようだ。因みに、昭和初期「尊氏」の名前を出すだけで糾弾された国会議員がいたくらいだ。尊氏はタブーだったのだ。
繰り返すが、持明院統との契約や父後宇多天皇から言われた二条天皇の皇子への譲位の強制など、自らの理想である天皇親政を実現する為には、倒幕して現在の秩序を一旦壊すしかなかったのだ。残念ながら自らの地位保全がきっかけであった訳だ。
さて、知識の乏しい筆者には、「鹿ケ谷の陰謀」と「正中の変」が、妙にオーバーラップして仕方がない。そこで平家物語と太平記の対比で眺めると、類似点が多い。
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鹿ケ谷の陰謀 |
正中の変 |
対立 |
清盛VS後白河上皇 |
幕府(六波羅探題)VS後醍醐天皇 |
会合 |
東山鹿ケ谷山麓での無礼講 |
無礼講 |
密告 |
多田行綱が清盛に密告 |
土岐頼春が新妻(父が六波羅)に漏洩 |
処分者 |
僧俊寛・僧西光・藤原成親・ 平資行・平康頼など |
日野資朝 斬首・日野俊基 謹慎 土岐頼貞・多治見国長 自害 |
陰謀説 |
熊野詣中の清盛の陰謀説 |
太平記の作者の脚色? |
その後 |
以仁王・源三位頼政の乱へ その後義経の登場 |
元弘の変を経て楠木正成の登場 足利尊氏の裏切りへ |
このように、見ると話しの展開が平家物語と似ていませんか?
いずれも後世の作によるもので、より劇的により時の権力者におもねる脚色になりがちだ。しかも太平記の作者は、平家物語を当然意識していたことは間違いない。足利尊氏と新田義貞の関係は、源頼朝と木曽義仲のイメージに求めただろうし、楠正成の天才的戦略は義経にそのイメージを求めたと言わざるを得ない。(筆者私見)
さて、後醍醐天皇の倒幕運動は、その後の元弘の変でも密告(吉田定房)によって露見し。笠置山での本格挙兵となる。そこから隠岐への島流し、脱出、建武の親政、尊氏の裏切りと時代はめまぐるしく動く。この辺りは、筆者が書くには知見が及ばないし、読者周知の話だ。
一方、歴代天皇の子だくさんランキングでもトップ3に入る。いずれ正式に集計して見ようと思うが、桓武天皇・後水尾天皇などがランキング上位に入る。①平和な時期に腰?を落ち着けて子作りする場合。②政治に参加できず暇で子作りに走る場合。そして、③戦闘員として多くの子が必要で子作りする場合などが考えられる。
後醍醐天皇は、倒幕から南北朝戦乱の中で戦闘員が必要だったし、生存の難しい時代に後継者を多く持つことの必要性はあった。③のケースだ。それでもお好き?じゃなければ出来ない仕業だ。なんと29名以上の後宮・中宮から、43名以上の皇子・皇女をもうけている。20歳前後から吉野に降る40歳ころまで43名だから、年間2名以上のペースで産ませている。死産や妊娠中の不幸の多かった時代だから妊娠させただけなら年間3~4名ペースだろう。記録に残せない庶民のレベルでも(お手付き)同衾させているだろうから年間の回数はどれほどに及ぶか?まさに絶倫の勢いだ。有名な長男、護良親王(大塔宮)始め、尊良親王、宗良親王は初期の頃の後宮をお相手にできた皇子たちで、主に戦闘要員となって行った。この中で征夷大将軍に2名就任させている。
ここまで、市井のいくつかの解説本と年表を参考にして来た。ここからは、神皇正統記を参考にする。
神皇正統記は、南朝方の北畠親房公が書いた「歴史書」である。冒頭、「大日本者神国也」と書いているように、日本は「天皇中心の神の国」と言っている。言うまでもなく南朝の正当性を神武天皇以来の功績を詳しく書いて証明している。そして、若き今上天皇である後村上天皇に謹呈している。「神慮」という言葉が、しばしば出て来るように天皇親政を礼賛し摂関家や武士の政権を、「神慮に反する」とし好ましく思っていない。後醍醐天皇の時代に書かれたので当然その業績を称えている、「正中の変」については、父後宇多天皇の死後、幕府との関係悪化があったが、大したことには至らなかったとしか書いていない。倒幕の「と」の字にも触れていない。おそらくそれが真実ではなかったかと思う。正式に天皇として即位し、やっと後宇多上皇のいない中で政治手腕を発揮出来つつあったのだから・・・。ただ、皇太子に持明院統の量仁親王(光厳天皇)に決まった事は後の懸念事項であった。
「元弘の変」についても詳しい経緯は書いていない。ただ京を出て笠置山に宮殿をもうけたとしか書いていない。そこで、忠臣楠木正成と出会い、隠岐脱出には名和長年との出会いだけを書いている。当時は尊氏の裏切りや、複雑な武将の動向はまだ親房にはわかっていなかったのではないだろうか。因みに楠木は、橘性であるとしている。勿論、名和氏は源氏である。
そして詳しく書いているのは、武将たちが過度に恩賞を求める醜さを強調している。「恩賞の乱れと君臣の踏むべき本道」という項目では、頼朝は身分にふさわしくない高位へ叙された為、遂には一族全員滅んだのだと言っている。尊氏についても自分の功績が天の功にも関わらず自分の手柄と勘違いしていると断じている。そして、「介士推の教え」(古代中国の教え)自分の功績を微細なものとして恩賞を辞退する例えを紹介して一層強調している。その他、平将門を鎮圧した平貞文や源為義、為朝など多くの事件を悪例として挙げている。
そして建武の親政の3年間を高く評価し、その後の武家や公家の豹変を嘆き、今後の世の中を憂う。都の賑わいは、建武の時代だけだったと結んでいる。最後のところで、息子北畠顕家の死と、自ら再び奥州へ下向する事を書き、後村上天皇の誕生を「母阿野簾子が懐妊時太陽を抱く夢を見た。」ただ事ではない皇子であり天子になるべくなった運命の天皇であると書いて筆をおいている。そしてこの書を謹んで幼帝後村上天皇に残している。
この書は、戦前の皇国史観に大きく影響したと思われる。
さて、庶民にはどう見えたか?後醍醐天皇は、親政の最中、有名な「二条河原の落書き」で、公然?と批判されている。また、その後、北条氏の遺児を盟主に鎌倉に反乱がおこる。尊氏が鎮圧に向かうが、その後独自の政権を樹立することを表明する。尊氏は一旦九州まで落ちるが、湊川の戦いで楠木正成と壮絶な戦いの後、都を奪取しそこから尊氏の戴く光明天皇(北朝)と後醍醐の吉野朝(南朝)の時代に突入する。このように庶民には戦乱の中困窮の極みであったと想像する。
後醍醐天皇は、吉野金輪王寺で52歳で崩御する。辞世の句はなく「玉骨は縦南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」と壮絶な遺言を残した。通常天子の陵は南面するものだが、後醍醐陵は、北方(京都御所)に向いている。なお、北朝方は、元徳院という院号を用意したという。「徳」のつく院号は、安徳や崇徳、順徳など不幸な亡くなり方の天皇に多いまさに「怨霊天皇」につける院号だ。後に、尊氏が「天龍寺」を創建し鎮魂する。さらに義政に至っても銀閣寺の東求堂に後醍醐の「位牌」を安置して礼拝している。
さて、魂は鎮まったのだろうか?