アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

511 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第41代 亀山天皇

2019-01-22 12:54:16 | 日記

㊶ 平安京 41代 通算90代 亀山天皇

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在位 1259年~1274

業績(事件) 両統対立へ

父   後嵯峨天皇 

別称  禅林寺殿

死因  病死

御陵 龜山陵

宝算 57歳

 

亀山天皇は、後深草天皇の弟だが、両親に好かれる明るい性格だったようだ。結果的に、大覚寺統の始まりにつながり兄の持明院統との対決を生む。

元寇は、亀山上皇の院政時にあった。息子の後宇多天皇と共に

「身を以って国難に代える祈願」

と、伊勢神宮に願文を残している。この身をもっての、「身」は、亀山なのか後宇多なのかが大論争となったようで、いまだに学界の決着を見ていないようだ。(どちらでも良いが?)

なお、父後嵯峨天皇の離宮禅林寺永観堂の南に、自らの離宮を営み、後に南禅寺となる。五山の上という大寺院を創建した功績は大きい。

箸休め コラム

藤原家は、なぜ、天皇にならなかったか?よくある質問だ。

平清盛、源頼朝、足利義満、織田信長、豊臣秀吉など皇位を狙ってもおかしくない英雄は、あまたいる。一方、弓削道鏡や平将門などあからさまに皇位を狙った人は、不幸な死に方をしているという事になっている。

筆者には答えるほどの知見はないが、「旧家の本家と分家」の関係に例えればどうか。本家が衰退し分家が如何に栄えても、本家は本家、分家は分家だ。本家の当主を「天皇」と思えばいい、分家は財力や権力をどんなに大きくしても、天皇ではなく、「将軍」とか「大臣」という地位で政治を牛耳れば本質的な権力欲求を満たすことが出来る。法事や祝い事の時に、本家の「天皇」を担いでいれば良いのだ。ただ、日本の皇室は、純粋に国民の幸福を祈る使命を守っているので、担いでいるという表現は当たらないが、形式的な権力構造は「本家」の皇族を頂点にしている。本家も、自分に近い親戚を重用するより、優秀な分家の人材を使う方が乗っ取られる危険性が少ない。藤原家は、忠実な分家として発展した。

藤原家は、中臣鎌足を祖とするが、その祖先は神話の「天児屋命」であり天照大神に仕える。天の岩戸の伝説や、天孫降臨の際にも伴っていて、皇室に最初に仕えた「神」の子孫であるとなっている。従って、藤原家は、大神になるのでなく「皇室(大神)に仕えること」に決めたのである。その事で存続の意義を見出したのである。一方、源氏も平家も、桓武平氏、清和源氏などと、皇室の分家である事がはっきりしている。いくら勢力をつけても「分家」は「分家」なのだ。

源平藤橘(源氏、平家、藤原、橘)の4氏しか日本には姓はない。足利は源氏の宗家、北条は平家の分家、一条とか冷泉、近衛とかすべてが藤原氏である。唯一、歴史に別の姓をもうけたのが、豊臣家なのだ。彼は、征夷大将軍は源氏しかなれない、関白や摂政には藤原氏しかなれない事を知ると、最初は近衛氏を名乗る。しかし、人臣を極めて天皇になる代わりに「豊臣秀吉」を名乗った。残念ながら豊臣は、秀次、秀頼の3名しか名乗れなかった。

このように、日本人の誰もが皇室である「本家」の「分家」なのだ。本家に血統の近しい人から順番に男子男系でつないできたのだ。

従って、我々に天皇の指名は来ない。ご安心あれ・・・・・。

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