アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

527 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第57代 正親町天皇

2019-02-02 16:44:56 | 日記

 57 平安京 57代 通算 106 代 正親町天皇

 「正親町天皇」の画像検索結果

在位 1557年~1586年

業績(事件) 信長に官位を授ける

父   後奈良天皇

別称  

死因  病死

御陵 深草北御陵

宝算 77歳

 

おおぎまち天皇と読む。とうとう戦国時代真っただ中にやって来た。ここまで、長期在位の天皇が続いている。朝廷が安定していた訳ではない。財政が窮乏し宮中行事にも差しさわりがあった為、即位の儀式すら出来ない天皇もいた。従って、早々に譲位して上皇になって院政を敷くことも出来なかった。死ぬまで天皇にとどまるしかなく結果在位も長くなる。

正親町天皇が即位した時はまだ、毛利元就が戦国最大の武将で、信玄・謙信が川中島で合戦し、洛中は三好長慶や松永久秀など、強者・曲者たちが群雄割拠していた。その後、桶狭間の戦いを経て足利幕府の滅亡。本能寺の変そして秀吉の天下がほぼ固まるまでの天皇である。

実に29年間の激変の「公家社会の日ノ本」を統治していた。

ご自身の即位の礼も行えなかった。困窮の為である。わずかな毛利元就からの献上金で即位したと記録に残っている。信長が上洛し朝廷に上納金を上納した事で、やっと天皇の権威が回復した。しかし、これは信長による策略で、朝廷の権威を利用して天下統一を速めたのである。浅井・朝倉との和睦や、本願寺との和解・将軍義昭との和睦もすべて正親町天皇の勅許による。

天下の香木「蘭奢待」の切り出しを許可したのも正親町天皇だ。勿論強要され脅されたものと思う。聖武天皇以来の天下の香木「蘭奢待」は、正倉院所蔵の切り取りタブーのものである。公家たちは「聖武以来の皇室の天罰が下る。」と嘆いたと伝わる。

蘭奢待の切り取りは、近世になって明治天皇以前は、足利義政と織田信長だけだ。また、その後の、秀吉の朝鮮出兵も正親町天皇の時代だ。

 さて、特に功績の見つからない天皇だが、皇統にない人間(普通の人)に天皇の位を奪われる危機がこの時代あったと思う。歴史上有名なのは、弓削の道鏡だ。平安以前の天皇なので詳しく書かないが、和気清麻呂がその危機を救った。次は、足利義満、これは以前詳しく書いたが、天皇は後小松天皇の時代で、死後「鹿苑院太上法皇」の称号が下されている。そして、織田信長だ。彼の行状を考えると、権威に対して何の畏敬の念がない。比叡山も本願寺もなんとも思っていなかった。天皇や皇室も自分の野望の手段でしかなかった。そのような事に危機感を持った「明智光秀の謀反」だったと筆者は思う。

結局、皇統は守られた。

一方秀吉には、天皇に代わる意志はなかったと考える。最下層の出身の日吉丸に、その様な発想はなかったことが、また歴史の奇跡でもある。正親町天皇は、正確温和で、慈悲深く写経をし国民の幸福を願う事がしばしばあったと伝わる。

多くの方に慕われた天皇だった。

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526 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第56代 後奈良天皇

2019-02-02 16:13:59 | 日記

56 平安京 56代 通算 105 代 後奈良天皇

 「後奈良天皇」の画像検索結果

在位 1526年~1557年

業績(事件) 困窮の皇室続く

父   後柏原天皇

別称  

死因  病死

御陵 深草北御陵

宝算 62歳

 

 

即位後、10年ほど即位式すら出来なかった。言うまでもなく財源がなかったのだ。さて、この頃の歴史については検証が十分ではなく、我々市井の歴史マニアには難解過ぎて分からない。しかし、後奈良天皇在位中の出来事を、年表から拾うと激変の時代が見えて来る。

まず、将軍は、義晴~義輝の時代だが、1527年に「義晴入京する」と書いてあるから京都にいなかった将軍なのである。足利将軍は、権力を把握していたのは3代義満までで、その子4代義持以降、籤将軍の6代義教、銀閣寺創建の8代義政が名を知れているくらいで、それ以外では素人では名前も業績も理解されない。年表に戻る。一向一揆の文字が度々見える。一方、1536年には天文法華の乱があり洛中から法華宗(今の日蓮宗)が追放される。1543年は鉄砲伝来、1549年はキリスト教伝来とまさに宗教的にも、軍事的にも激変の時代だとわかる。その間、毛利元就、武田信玄、上杉謙信、斎藤道三、山中鹿之助、陶隆房、織田信秀、・・・・・。と、歴史好きにはたまらない戦国中期の英雄がどんどん出ている。年表を見るだけでワクワクする。

その中で、1540年後奈良天皇、諸国悪疫流行により「般若心教」を書写し三宝院に祈祷させる。と、書いてあった。現在の皇太子が、昨年57歳の誕生日に、わざわざ後奈良天皇の名前を出して、その事について畏敬の念を表明している。

いつの時代でも国民の幸福を願う皇室の本質が見える。埋葬地は、多くの天皇が眠る深草北御陵である。

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