57 平安京 57代 通算 106 代 正親町天皇
在位 1557年~1586年
業績(事件) 信長に官位を授ける
父 後奈良天皇
別称
死因 病死
御陵 深草北御陵
宝算 77歳
おおぎまち天皇と読む。とうとう戦国時代真っただ中にやって来た。ここまで、長期在位の天皇が続いている。朝廷が安定していた訳ではない。財政が窮乏し宮中行事にも差しさわりがあった為、即位の儀式すら出来ない天皇もいた。従って、早々に譲位して上皇になって院政を敷くことも出来なかった。死ぬまで天皇にとどまるしかなく結果在位も長くなる。
正親町天皇が即位した時はまだ、毛利元就が戦国最大の武将で、信玄・謙信が川中島で合戦し、洛中は三好長慶や松永久秀など、強者・曲者たちが群雄割拠していた。その後、桶狭間の戦いを経て足利幕府の滅亡。本能寺の変そして秀吉の天下がほぼ固まるまでの天皇である。
実に29年間の激変の「公家社会の日ノ本」を統治していた。
ご自身の即位の礼も行えなかった。困窮の為である。わずかな毛利元就からの献上金で即位したと記録に残っている。信長が上洛し朝廷に上納金を上納した事で、やっと天皇の権威が回復した。しかし、これは信長による策略で、朝廷の権威を利用して天下統一を速めたのである。浅井・朝倉との和睦や、本願寺との和解・将軍義昭との和睦もすべて正親町天皇の勅許による。
天下の香木「蘭奢待」の切り出しを許可したのも正親町天皇だ。勿論強要され脅されたものと思う。聖武天皇以来の天下の香木「蘭奢待」は、正倉院所蔵の切り取りタブーのものである。公家たちは「聖武以来の皇室の天罰が下る。」と嘆いたと伝わる。
蘭奢待の切り取りは、近世になって明治天皇以前は、足利義政と織田信長だけだ。また、その後の、秀吉の朝鮮出兵も正親町天皇の時代だ。
さて、特に功績の見つからない天皇だが、皇統にない人間(普通の人)に天皇の位を奪われる危機がこの時代あったと思う。歴史上有名なのは、弓削の道鏡だ。平安以前の天皇なので詳しく書かないが、和気清麻呂がその危機を救った。次は、足利義満、これは以前詳しく書いたが、天皇は後小松天皇の時代で、死後「鹿苑院太上法皇」の称号が下されている。そして、織田信長だ。彼の行状を考えると、権威に対して何の畏敬の念がない。比叡山も本願寺もなんとも思っていなかった。天皇や皇室も自分の野望の手段でしかなかった。そのような事に危機感を持った「明智光秀の謀反」だったと筆者は思う。
結局、皇統は守られた。
一方秀吉には、天皇に代わる意志はなかったと考える。最下層の出身の日吉丸に、その様な発想はなかったことが、また歴史の奇跡でもある。正親町天皇は、正確温和で、慈悲深く写経をし国民の幸福を願う事がしばしばあったと伝わる。
多くの方に慕われた天皇だった。