アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

542 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第72代 孝明天皇

2019-02-06 14:41:44 | 日記

72 平安京 72代 通算 121 代 孝明天皇

 「孝明天皇」の画像検索結果

在位 1846年~1866年

業績(事件) 公武合体から維新へ

父  仁考天皇

別称 煕宮

死因 病死

御陵 後月輪東山陵

宝算 36歳

 

平安京最初の天皇は、50代桓武帝だから孝明帝まで72代72名の天皇が京都にいた?そうではない。南北朝時代があった為、北朝5代の天皇を入れて77名の天皇がこの間即位している。皇統は南朝でつないでいるが、血統は北朝でつながる。正当な皇統はあくまでも南朝である。この辺りのややこしさは以前書いた。平安京最後は誠に特殊な歴史を背負ってしまった幕末の天皇だ。在位中の元号を見るだけでその激動の時代がうかがえる。嘉永6年のペリー来航から幕末が始まる。御簾の奥深く生活するやんごとなき方達の中の天皇は、当然外国は「恐れ」であり「討伐すべき対象」であった。外国の脅威を感じた幕府が、朝廷に無断で条約を結ぶ。孝明帝は密勅(秘密の勅諚)で水戸藩はじめ尊王攘夷派に条約の破棄(再考)と譲位決行を迫る。その結果、反幕府派となった水戸藩はじめ攘夷派の粛清が始まる。安政の大獄だ。さらに一層過激に走る水戸藩士たちが井伊直弼の暗殺を決行する。桜田門外の変だ。ここを境に尊王攘夷の動きが一気に「倒幕」へと傾く。しかし当の孝明帝は、後ろ盾の幕府があってこその朝廷であるとの立場をとる。

その為、自らの妹和宮を徳川家茂に降嫁させている。公武合体を実現しているのだ。江戸初期の徳川秀忠の娘の和子が後水尾帝に嫁いだ公武合体とは真逆である事に注目したい。

因みに、その和宮のかつての婚約者だった有栖川熾仁親王が、自ら志願し討幕軍の東征大総督として錦の御旗を掲げたのである。「錦の御旗」とは天皇の勅許をもってしか許されないはずなのにである。また、京都守護職の会津藩主松平容保との信頼関係も有名な話だ。従って、この流れを詳しく見ると、新政府は孝明帝の下で維新を行う事は誠に不都合な事になる。孝明帝暗殺説が根強いのはこのような背景からである。犯行は岩倉具視とも言われる。

長く痔に悩んでおられた天皇は、晩年天然痘にかかられ、最後は、「御九穴より御脱血」と、伝えられる壮絶な最後であった。陵墓は、泉涌寺の後月輪陵に葬られた。その後、桓武帝を主祭神にした平安神宮に孝明帝も合祀された事でやっとほっとする。また、1月30日は先帝祭として明治時代まで国民の休日であった。

不幸な死に方をした偉人は、大切にすると言う「怨霊思想」のまだ残る時代であったのだろう。

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541 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第71代 仁考天皇

2019-02-06 14:30:59 | 日記

71 平安京 71代 通算 120 代 仁考天皇

 「仁考天皇」の画像検索結果

在位 1817年~1846年

業績(事件) 維新前夜へ

父  光格天皇

別称 寛宮

死因 病死

御陵 後月輪陵

宝算 47歳

 

考天皇 在位1817年~46年  29年間

仁考天皇の生きた時代は、幕末前の一時の一見平和な時代だ。徳川家は、あの子だくさんで有名な家斉の時代だ。年表を確認すると、天保の飢饉や水野忠邦の改革の時代で、大塩平八郎の乱以外の大乱は見当たらない。在位前半は、父光格上皇の院政の時代で仁考帝の個性をうかがう材料は少ない。父の皇室の諸行事を復興すると言う志を忠実に引き継いだと思われる。肖像画を見る限り、誠に上品な品性を感じる。ひ弱な印象を受けるが、7人の皇子、8人の皇女をもうけている。今なら絶倫と言いたいところだが、平時の皇帝や将軍の役目は子作りだ。同時代の家斉と子作り対決と言ったところか。

その最後の皇女を徳川家に嫁がせている。和宮だ。(降嫁時は亡くなっているが、)唯一の功績は、学習院の創設に関わっている事だ。現在の御所の東南、建春門辺りに公家講学の場として「学習所」が創設された。公家たちの勉強の場を提供したのだ。それが現在の学習院大学の祖である。皇室の方々が学ぶのは当然の流れだ。今まで多くの天皇を書いて来たがこのように時代をしっかり繋ぐ事が役割の、御繋ぎの天皇は多く出て来た。歴史に大事件や大きな業績は残していないが、本来天皇とは皇統をしっかり繋ぐ事が最大の役割なのだ。後醍醐や後鳥羽のように大乱を起こした天皇もいるが、我々は仁考天皇のように、忠実に世を繋ぎ、多くの皇子を残す事で日本を守った天皇を忘れてはいけない。 薨去後、泉涌寺 後月輪陵に葬られた。

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540 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第70代 光格天皇

2019-02-06 13:39:31 | 日記

70 平安京 70代 通算 119 代 光格天皇

 「後桃園天皇」の画像検索結果

在位 1779年~1817年

業績(事件) 尊王思想から維新へ

父   閑院宮典仁親王

別称 祐宮

死因 卒中

御陵 後月輪陵

宝算 70歳

光格天皇の功績は多い。御所の隣の清荒神には、衣奈塚がある。先代の後桃園天皇に皇子がいない事から、皇嗣の断絶の危機があった。そのような事を想定して、以前から新たな宮家を創設していた。その一つ閑院宮から迎えられ即位した。因みに、父の閑院宮には慶光天皇を諡号している。(ただ、認められたのは明治時代。正当な皇統には数えていない。)現在の平成につながる皇統の直系の祖は、ここから始まる。

さて、最大の功績は、漢風諡号・天皇号を復活した事である。薨去した天皇をどう呼ぶか?単に天皇と言えばその時点では絶対おひとりなので呼び名は必要ない。「今上陛下・主上・お上など」である。では、死後どう呼ぶか?

天皇、上皇、法皇、院、帝・・・・・。上皇は「以前の天皇」だ。出家すれば「法皇」。我々は、当たり前のように、〇〇天皇というが実は、平安初期の光孝天皇以降、諡号・天皇号は途絶えていた。例外的に、崇徳天皇・安徳天皇・後鳥羽天皇・順徳天皇など一部を除いて諡号・天皇号は送られていない。これら例外の天皇はすべて不幸な亡くなり方をした方達であり、その為怨霊を恐れ「徳」の字を当てている。その諡号・天皇号を光格天皇が復活した。従って、その間は単に〇〇院と申し上げるのが正しい。もちろん崇徳院とか後鳥羽院と言うのも正しい。「院」は、「殿」と同じような意味かと思う。藤原道長を法住寺殿とか、源頼朝を鎌倉殿というのと同じだ。(値打ちは違うが・・・・。)しかし、光格天皇以降、現在まで昭和院とか明治院とは言わない。諡号・天皇号は、在位中の功績や因縁により送られるが、どう決めるかなど、その考察は後日にする。

二つ目の功績は、現在の御所が、この時の大火事(天明大火)後再建されたものである事だ。京都検定的には、裏松固禅の「大内裏図考証」に基づき再建された事は必ず覚えなければならない。因みに、その間天皇は聖護院に身を寄せていたことも知っておきたい。

さらなる功績は、天明の大飢饉のときに、御所の周囲を多くの避難人が取り囲んだ。「御所お千度参り」という。その時御所からは、上皇や高位貴族たち自ら、リンゴやお茶・握り飯を配った。これを知った光格天皇は、幕府にコメを1500俵放出させるなどした。このように皇室の動きが政治を動かした結果、尊王の機運が高まり、さらにまた、光格天皇が学問の習得に力を注ぎ、これらの事が幕末の尊王攘夷思想につながって行った事は最も重要な事だ。中世から近代への歴史に重要な足跡を残し、70歳の長寿を生きた。泉涌寺 後月輪陵に葬られた。

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539 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第69代 後桃園天皇

2019-02-06 13:37:55 | 日記

69 平安京 69代 通算 118 代 後桃園天皇

「後桃園天皇」の画像検索結果
 

在位 1762年~1779年

業績(事件) 直系の皇嗣途絶える

父   桃園天皇

別称  

死因 病死

御陵 月輪陵

宝算 22歳

 

女帝である叔母の、後桜町天皇の後を継いだ。父(桃園天皇)が亡くなった時、まだ幼少であった為に成長を待って即位した。12歳であった。上皇として姉の援助を受けながらの即位であった。親子でない皇位継承は、この後の後桃園から光格で最後となる。また、天皇の甥に継がれたのは430年ぶりという極めて珍しい即位となった。しかも、22歳で薨去し内親王しかいなかったので、まさに皇室存続の危機でもあったのだ。その娘である内親王の欣子(よし子)を、女帝にしても問題は解決されない事から、皇位は傍系の閑院宮に継がれた。江戸初期に新井白石の進言で新設した宮家の効果がここで実った。今こそそのような皇位継承について危機感を持った議論が望まれる。

因みに、欣子内親王はその光格天皇のお后となっている。内親王の立后は極めて珍しい。なお、そのお子に男子がいたが早世し遂に桃園・後桃園の皇統は繋げなかったのである。 時代は、将軍家治・老中田沼意次の時代で、残念ながら天皇の業績は特に残っていない。若くして亡くなった事と、叔母への遠慮も考えると切なくなる。

陵墓は、泉涌寺 月輪陵に光格皇后の欣子と親子で隣り合わせで眠っている。

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538 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第68代 後桜町天皇

2019-02-06 13:28:58 | 日記

68 平安京 68代 通算 117 代 後桜町天皇

 「後桜町天皇」の画像検索結果

在位 1747年~1762年

業績(事件) 現在のところの最後の女性天皇

父   桜町天皇

別称  以茶宮

死因  不明

御陵 月輪陵

宝算 74歳

女性天皇は、推古・皇極(重祚して斉明)・持統・元明・元正・孝謙(重祚して称徳)ここまですべて奈良時代以前だ。それ以降は、後水尾天皇が突然退位した後の、明正天皇。そして今回の後桜町天皇。いずれも次期天皇が幼少で、つなぎの天皇だ。これを中天皇(なかのすめらみこと)と言う。

因みに、神功皇后が即位していたと言う説はあるが、歴史上「皇后」扱いだ。また、現在は、男系男子に限定しているので女性天皇は、この天皇が最後となる。実に、平安時代以降、800年近く男系男子でつないできたのだ。今後も簡単に女性天皇を容認すべきではないと言う意見はここから来ている。

年表を確認しても、京都に大事件はなく 文化的には円山応挙の活躍の時代だ。また白隠が萬福寺を再興した時期でもあった。そして、甥の13歳の成長を待って後桃園天皇につないだ。愛情深く文化的素養にも長けた方であったようで、院政をもって若き天皇を指導した。その後、さらに光格天皇即位後も、傍系からの天皇にも関わらず親身に指導し「国母」と呼ばれた。光格天皇が父閑院宮に天皇尊号を送ろうと幕府と対立した時には、「御代長久が第一の孝行」(あなたが長く安定して天皇でいる事が一番の孝行ですよ。)と言って諭した。やはり天皇は、男性であれ女性であれ日本国を考えていた。

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