62 平安京 62代 通算 111 代 後西天皇
在位 1654年~1663年
業績(事件) 災害の責任を取って退位
父 後水尾天皇
別称 秀宮
死因 病死
御陵 月輪陵
宝算 49歳
誠に不遜ながら書きにくい天皇だ。
昔は、天皇の在位中に天変地異や紛争があれば時の天皇の「不徳」とされた。現在でも、記者会見などで「不徳の致すところ」と謝罪するあの、「不徳」だ。今は本当に徳のない人達が頭を下げているが・・・・。後西天皇は、兄の後光明天皇の養子となっていた次期天皇候補である実弟の霊元天皇が幼かったため、繋ぎの天皇として即位した。にも拘わらず、在位中の、明暦の大火や伊勢神宮の火災、地震や水害が後西天皇の不徳のせいにされたのだ。従って、霊元10歳を待って早々に譲位した。在位中の事件を手元の日本史年表で確認したが、確かに火事や天災が多く書かれている。
一方、幕府は若衆歌舞伎を禁じたりして、盛んに綱紀の引き締めに動いている。合戦が終了した一方で、災害が増えて享楽的風潮が一気に出て来たのだろう。若衆歌舞伎は男性売春の実態があったからだ。また、狩野探幽の全盛期で、大徳寺仏殿の建築などに関わっている。また、黄檗山では、隠元が萬福寺の創建を始めている。天皇に関わりなく世の中の文化が、大きく動いていた時代だ。残念ながら宮中に大きな功績は見つけられなかった。
さらに気の毒なのは、諡号の後西とは、同じく自らの血統を残せなかった平安時代の淳和天皇が、西院帝と呼ばれた事から、後西院とされたものだ。だったら後西院天皇とすべきなのだが、光格天皇までは、亡くなった天皇を院号で呼んでいた為、後西院院ではおかしいので後西天皇とした。どこまでもお気の毒な天皇だ。ご自身の業績は記録されていない。しかし文化的には相当なレベルであったと伝わる。