アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

532 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第62代 後西天皇

2019-02-05 09:40:32 | 日記

62 平安京 62代 通算 111 代 後西天皇

 「後西天皇」の画像検索結果

在位 1654年~1663年

業績(事件) 災害の責任を取って退位

父   後水尾天皇

別称  秀宮

死因  病死

御陵 月輪陵

宝算 49歳

誠に不遜ながら書きにくい天皇だ。

昔は、天皇の在位中に天変地異や紛争があれば時の天皇の「不徳」とされた。現在でも、記者会見などで「不徳の致すところ」と謝罪するあの、「不徳」だ。今は本当に徳のない人達が頭を下げているが・・・・。後西天皇は、兄の後光明天皇の養子となっていた次期天皇候補である実弟の霊元天皇が幼かったため、繋ぎの天皇として即位した。にも拘わらず、在位中の、明暦の大火や伊勢神宮の火災、地震や水害が後西天皇の不徳のせいにされたのだ。従って、霊元10歳を待って早々に譲位した。在位中の事件を手元の日本史年表で確認したが、確かに火事や天災が多く書かれている。

一方、幕府は若衆歌舞伎を禁じたりして、盛んに綱紀の引き締めに動いている。合戦が終了した一方で、災害が増えて享楽的風潮が一気に出て来たのだろう。若衆歌舞伎は男性売春の実態があったからだ。また、狩野探幽の全盛期で、大徳寺仏殿の建築などに関わっている。また、黄檗山では、隠元が萬福寺の創建を始めている。天皇に関わりなく世の中の文化が、大きく動いていた時代だ。残念ながら宮中に大きな功績は見つけられなかった。

さらに気の毒なのは、諡号の後西とは、同じく自らの血統を残せなかった平安時代の淳和天皇が、西院帝と呼ばれた事から、後西院とされたものだ。だったら後西院天皇とすべきなのだが、光格天皇までは、亡くなった天皇を院号で呼んでいた為、後西院院ではおかしいので後西天皇とした。どこまでもお気の毒な天皇だ。ご自身の業績は記録されていない。しかし文化的には相当なレベルであったと伝わる。

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531 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第61代 後光明天皇

2019-02-05 09:07:38 | 日記

61 平安京 61代 通算 110 代 後光明天皇

 「後光明天皇」の画像検索結果

在位 1643年~1654年

業績(事件) 清廉潔白 朱子学を好む

父   後水尾天皇

別称  素鷲宮

死因  病死(痘瘡死)

御陵 月輪陵

宝算 22歳

 

父後水尾天皇の突然の譲位により後を継いだ姉明正天皇の、その後を継いだ。3名の皇子のお一人で、第4皇子。次代の後西天皇は第8皇子。霊元に至っては第18皇子である。子を多く作ることは素晴らしい。さて、ほぼ長男の後光明天皇は、後世評価が分かれるところである。即位時、父後水尾上皇から、「武家専権の世であるから、この時世にあっては心を慎むことが肝要である。」と戒めている。あなたが言うか?と、言いたい・・・・。

後光明は武芸を好み、酒乱の気があったとも言う。どうも天皇家は代々お酒が強いようだ。武芸については、幕府を刺激するとして、京都所司代から注意を受けた。やめなければ切腹すると脅された折り、何と天皇は、「武士の切腹を見たことが無いので見て見たい。」と言い放ったと伝えられる。京都所司代板倉重宗(勝重の子)は閉口したとなっているので、切腹はしなかったようだが。

また、源氏物語を淫乱の書と断じている。これは大いに賛同する。また仏教嫌いで当時火葬される天皇も多い中で、土葬により葬られた。

酒について逸話がある。なかなか大酒をやめない天皇に、側近徳大寺公信が諫めたところ、天皇は短剣を抜いて切ろうとした。それに対して、公信は、「諫言さえお容れになるのなら、身命は惜しみません」と、その場に平伏した。翌日、自らを恥じた天皇は、「昨夜の有様こそ返す返す恥ずかしく思う」と、その短剣を差し渡した。徳大寺公信はその場に嗚咽をもらすのみであったと言う。このように、後日伝わる逸話から見ても評価が分かれるところである。

因みに、庭田秀子(源秀子)源典侍(みなもとのないしのすけ)という高位ではない女性のみを愛した。御子もおひとり内親王のみで、血統を繋ぐことは出来なかった。仏教嫌いの天皇でも、源典侍の安産祈願を大蓮寺に命じた。その子が皇子であれば皇位継承の望みもあったはずだ。

なお疱瘡によりにわかに崩御したが、23歳の若さゆえ幕府による毒殺説が疑われている。

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