アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

530 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第60代 明正天皇

2019-02-04 14:42:21 | 日記

60 平安京 60代 通算 109 代 明正天皇

 「明正天皇」の画像検索結果

在位 1629年~1643年

業績(事件) 860年ぶりの女帝登場

父   後水尾天皇

別称  女一之宮

死因  病死

御陵  月輪陵

宝算  74歳

 『女帝の儀は苦しかるまじき、左様にも候わば、女一宮に御位預けられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事』

冒頭の文章は、後水尾天皇が突如退位する時、皇太子の用意がなかった為、娘の女一之宮である明正天皇に譲位する判断の際、母である中和門院に意向を訪ねた時の門院の答えだ。中和門院は後陽成天皇の女御で、近衛家から豊臣秀吉の養女となりそこから宮中に入った激動の女性である。

要は、(女性の天皇は構わないが、そうであるならば男子誕生の時はすぐに譲位すべきかと思う。)それは当然、徳川和子(東福門院)とのお子であるべきだろう。因みに、二人の間には男子は生まれなかった。

平安以降初の女性天皇である明正天皇を語るには、父後水尾天皇を語ることになる。なにせ登極時、5歳の幼児だったのだ。いかに父の衝動的な退位であったかがうかがえる。元々、和子入内の背景には徳川家が、藤原摂関家の全盛期同様に「天皇の外祖父」の地位につくことを狙ったもので、実際このような形で外祖父になった訳だが、女帝であった為、女帝及び宮中行事には相当な制約を設けたようだ。

実際、明正天皇は天皇らしい務めは出来ず、文武百官を従えるものではなかったようだ。しかも、女帝は、我が子が天皇であった場合以外、男性関係も許されず生涯純潔であったはずだ。(孝謙天皇と道鏡については一旦忘れて)異母弟の後光明天皇の10歳を待って、東福門院の養子にしてすぐに譲位した。 

功績はないが、その後の宮廷文化の隆盛に貢献したと言う。74歳という当時の長寿を全うした事でちょっとホットする。なお、明正の名は、奈良時代の女帝、元天皇、元天皇の一文字ずつ頂いたものだ。

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番外 京都の節分

2019-02-04 08:42:11 | 日記

昨年に続き、節分の神社を訪ねた。

西天王社「須賀神社」「交通神社」を訪ねて見た。

このブログで紹介した鳥羽天皇晩年の寵姫、美福門院得子創建の歴史ある神社で王城鎮護の役割を担う。

珍しいのは、懸想文売り。顔を白い布で覆い「懸想文」を売る。1000円の縁起物は女子がタンスの中に密かに入れておくと美人になり良縁に恵まれると言う。

中味はこのような文が入っている。黄色の文章がたたまれ梅の描かれた紙に括りつけてあった。文章の内容については筆者には読解力不足である。


 

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529 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第59代 後水尾天皇

2019-02-04 08:28:49 | 日記

  59 平安京 59代 通算 108 代 後水尾天皇

 「後水尾天皇」の画像検索結果

在位 1611年~1629年

業績(事件) 修学院離宮創設・別格の存在感

父   後陽成天皇

別称  円浄

死因  病死(暑気あたりとも)

御陵 月輪陵

宝算 85歳

いよいよ江戸時代の天皇の主役登場だ。幕府が江戸に開かれ、まだ、その基盤が確立されていない中で、幕府にとっては京都の朝廷対策は最重要事案であった。家康は硬軟交えて施策を考えていた。それが金地院崇伝の献策で「禁中並びに公家緒法度」に集約され、朝廷の独自政治力は大きく削られた。一方将軍秀忠の娘、和子を天皇の御台所として御所に送り込んできた。そのいずれもが後水尾天皇の逆鱗に触れる。

ここから今回の話が始まる。

因みに、後水尾の水尾とは、京都の三尾(高尾・栂尾・槙尾)に加え、愛宕山の南山麓を水尾と呼び、清らかな水が湧き出ていた地域で、平安初期の天皇である清和天皇がこよなく愛した地域である。従って、清和を水尾天皇とも呼ぶ。それにあこがれた天皇が後水尾天皇で、その思いが強く天皇は生前にこの諡号を希望したのである。まさに御意思の強い天皇である事がうかがえる。

加えて、父後陽成天皇と生涯不仲であった事も、有名だ。

その事で、平安初期の清和天皇の息子が陽成天皇であったにも関わらず、父に後陽成の諡号を送り、自らはその親の後水尾を希望する父子逆転の命名を行った。その執念たるやすさまじい。因みに平安時代の陽成天皇は心身尋常ではない狂乱の天皇であったとされる。その天皇の諡号を父に贈ったのだ。恐ろしい・・・・。

さて、 この時代天皇を怒らせた事件を紹介する。

①       およつ御寮人事件

典司として後水尾天皇のそばに使えていた女性で、四辻与津子を後水尾は溺愛した。事実上の初めての女性(お相手)だったのだろう。天皇より7歳ほど年上の女性であった事から閨の手ほどきも受けたのではないかと想像する。しかし、一方徳川家からの和子の輿入れの話が進められていた。因みに、和子は11歳年下だ。輿入れが決定した時はまだ6歳の少女でおよそ閨のお勤めは果たせない。そんな時、与津子に子供のいる事が発覚し本人及び周辺の一族関係者が処罰された。その時の幕府の言い分は「宮中の風紀の乱れ」であった。徳川の大奥とどう違うのか?そして与津子本人も追放、出家となった。この時、若気にはやる後水尾は譲位を言い出したが、藤堂高虎の天皇への恫喝により断念したと言う。ここから幕府への反発が始まる。やはり最初のおんなを取られた恨みは深い。

②       紫衣事件

当時、高位の僧侶に最高の位を現わす紫の袈裟・衣を与える権限は朝廷にあった。正確には家康の時代に「勅許紫衣之御法度」で権限ははく奪されていたが、依然として天皇が行っていた。しかし後水尾の時に突然幕府が、その違法性と権限の略奪を通告してきた。抗議した大徳寺の沢庵和尚など多くの高僧が島流しとなった。後水尾の激怒が目に見えるようだ。

③       金杯事件

極めつけは、徳川家光の乳母である春日の局の宮中参内についての事だ。諸説あるが、当時無位無官の身である為、三条西家の猶子となり藤原福子として天皇より「金杯」を賜り、そして参内し天皇の譲位を諫めたと伝わる。因みに、春日の局は、本名斎藤福。何と明智光秀の筆頭家老の実の娘である。まさに謀反人の直系である。なぜそのような人物が重用されたのか、本能寺の変が家康の陰謀だとする説は、ここに由来する。因みに当時の乳母とは、単に授乳の勤めだけではない。少年となった家光の性の手ほどきも行っていると思われる。そうでなければ命を張って正室お江の方と御世継ぎ争いの指揮をするだろうか?(やや妄想)

このような事件の積み重ねが、積年の恨みとなって後水尾の突然かつ無断での譲位につながる。

因みに、その中宮和子とは仲睦まじく、2人の皇子、7人の皇女をもうけている。ただし皇子二人は早世している。7歳上のおよつ御寮人に手ほどきを受けた閨の技で、11歳下の徳川和子を十分愛おしんだという事だ。冒頭の絵にあるようなチャーミングな女性だ。ちょっとうらやましい。

そして、院政を敷いた後水尾上皇は文化活動と子孫繁栄にいそしんだ。普通の男ならば様々な制約があるが、やんごとなきお方にはそんな制約はなく自由奔放に振舞った。現代であれば飲む・打つ・買うという事になるが、そこは高貴な方の事、やることは決まっている。寺院の建立や庭園(別荘)の建設だ。晩年に向けて、有名な修学院離宮の創造に専念する。和子の配慮もあり徳川家の金銭的な支援も取り付けたのだろう。離宮は、上御茶屋・中御茶屋・下御茶屋の3か所の庭園に分かれていて、54万㎡に及ぶ。候補地としては、聖護院の長谷殿や岩倉殿、また圓通寺の幡枝御所などを見て回り、最終的に、修学院の「御茶屋隣雲亭」辺りに決めたとされる。上皇がしばしば自ら足を運んで指示したことが、近衛予楽院「槐記」という日記に残っている。因みに、単に「離宮」と呼ぶべきであり修学院は周辺の地名である。また、中御茶屋は、明治になって近隣の林丘寺の移転に伴ってその建造物を取り込んだものである。一方、生殖活動はすさまじい。記録に残るだけで、7人の女御や中宮相手に36名の皇子・皇女を残した。ご自身が22歳の時に7歳上のおよつ御寮人との間に1男1女をもうけた後は、中宮徳川和子(東福門院)とは、7名のお子をもうけている。ただ男子は育たず皇女のみが成長した。その後は、5名の典侍(下級の宮廷女官)を愛し続けて、最終61歳まで子をもうけている。特に、幕府が正式に院政を認めた1937年あたりからご自身の40歳代の男盛りにはすさまじい勢いで子作りを行っている。40歳前半で10名以上子が出来ている。平均寿命が50歳までの時代に、この精力は如何なものだろう。現代ならギネスものだ。古代の天皇にもその例は多いが、その結果歴史に貴重な軌跡を生む。

清和天皇が多くの子をつくったお陰で臣籍降下し、源氏(清和源氏)の祖となった。平氏の祖である桓武平氏も桓武天皇の生殖力のお陰だ。一方、後水尾上皇は、京都の門跡寺院の隆盛に大きく貢献した。宝鏡寺や霊鑑寺などの有名な尼門跡寺院はほとんどが後水尾の皇女が祖になっているか中興となっている。その結果、宮廷文化の伝承をこれらの寺院を通じて今、我々を楽しませてくれる。

最後に、所縁のお寺を一つ紹介する。

〇 「戒光寺」 釈迦如来立像の首に血の跡?

泉涌寺の参道を歩いていると、ほとんどの人が通り過ぎるお寺がある。「10mの木造釈迦如来像」と書いてある。塔頭 戒光寺(かいこうじ)は、丈六の釈迦如来像が有名なお寺だ。これは、後水尾天皇身代わりの仏像とされる。作は運慶湛慶なので鎌倉時代なのだが、よく見ると首のあたりに何かシミが見える。後水尾天皇の東宮時代、即位争いに巻き込まれ暗殺されそうになる。しかし首を絞められたが奇跡的に助かり、その後、この釈迦如来の首に血の跡が見つかった。それ以来、身代わりのお釈迦様と言われそして、首から上の病気にご利益があるとされ、その大きさから「丈六さん」と親しまれる事になる。ありがたいことです。丈六とは、仏像の本来の大きさで、立って5.4メーターほどだ。

後水尾天皇は、前半生は、幕府に抗ったが、後半生は優雅に文化に専念した。85歳の長寿を全うし昭和天皇がそれを越えるまで最長寿の天皇であった。その年齢を越えた時の、昭和天皇の記者会見のコメントが素晴らしい、

「後水尾天皇の時は平均寿命が短く、後水尾天皇の方が立派な記録です」

いずれも大変ご立派な天皇だった。日本人で良かった・・・・。

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