59 平安京 59代 通算 108 代 後水尾天皇
在位 1611年~1629年
業績(事件) 修学院離宮創設・別格の存在感
父 後陽成天皇
別称 円浄
死因 病死(暑気あたりとも)
御陵 月輪陵
宝算 85歳
いよいよ江戸時代の天皇の主役登場だ。幕府が江戸に開かれ、まだ、その基盤が確立されていない中で、幕府にとっては京都の朝廷対策は最重要事案であった。家康は硬軟交えて施策を考えていた。それが金地院崇伝の献策で「禁中並びに公家緒法度」に集約され、朝廷の独自政治力は大きく削られた。一方将軍秀忠の娘、和子を天皇の御台所として御所に送り込んできた。そのいずれもが後水尾天皇の逆鱗に触れる。
ここから今回の話が始まる。
因みに、後水尾の水尾とは、京都の三尾(高尾・栂尾・槙尾)に加え、愛宕山の南山麓を水尾と呼び、清らかな水が湧き出ていた地域で、平安初期の天皇である清和天皇がこよなく愛した地域である。従って、清和を水尾天皇とも呼ぶ。それにあこがれた天皇が後水尾天皇で、その思いが強く天皇は生前にこの諡号を希望したのである。まさに御意思の強い天皇である事がうかがえる。
加えて、父後陽成天皇と生涯不仲であった事も、有名だ。
その事で、平安初期の清和天皇の息子が陽成天皇であったにも関わらず、父に後陽成の諡号を送り、自らはその親の後水尾を希望する父子逆転の命名を行った。その執念たるやすさまじい。因みに平安時代の陽成天皇は心身尋常ではない狂乱の天皇であったとされる。その天皇の諡号を父に贈ったのだ。恐ろしい・・・・。
さて、 この時代天皇を怒らせた事件を紹介する。
① およつ御寮人事件
典司として後水尾天皇のそばに使えていた女性で、四辻与津子を後水尾は溺愛した。事実上の初めての女性(お相手)だったのだろう。天皇より7歳ほど年上の女性であった事から閨の手ほどきも受けたのではないかと想像する。しかし、一方徳川家からの和子の輿入れの話が進められていた。因みに、和子は11歳年下だ。輿入れが決定した時はまだ6歳の少女でおよそ閨のお勤めは果たせない。そんな時、与津子に子供のいる事が発覚し本人及び周辺の一族関係者が処罰された。その時の幕府の言い分は「宮中の風紀の乱れ」であった。徳川の大奥とどう違うのか?そして与津子本人も追放、出家となった。この時、若気にはやる後水尾は譲位を言い出したが、藤堂高虎の天皇への恫喝により断念したと言う。ここから幕府への反発が始まる。やはり最初のおんなを取られた恨みは深い。
② 紫衣事件
当時、高位の僧侶に最高の位を現わす紫の袈裟・衣を与える権限は朝廷にあった。正確には家康の時代に「勅許紫衣之御法度」で権限ははく奪されていたが、依然として天皇が行っていた。しかし後水尾の時に突然幕府が、その違法性と権限の略奪を通告してきた。抗議した大徳寺の沢庵和尚など多くの高僧が島流しとなった。後水尾の激怒が目に見えるようだ。
③ 金杯事件
極めつけは、徳川家光の乳母である春日の局の宮中参内についての事だ。諸説あるが、当時無位無官の身である為、三条西家の猶子となり藤原福子として天皇より「金杯」を賜り、そして参内し天皇の譲位を諫めたと伝わる。因みに、春日の局は、本名斎藤福。何と明智光秀の筆頭家老の実の娘である。まさに謀反人の直系である。なぜそのような人物が重用されたのか、本能寺の変が家康の陰謀だとする説は、ここに由来する。因みに当時の乳母とは、単に授乳の勤めだけではない。少年となった家光の性の手ほどきも行っていると思われる。そうでなければ命を張って正室お江の方と御世継ぎ争いの指揮をするだろうか?(やや妄想)
このような事件の積み重ねが、積年の恨みとなって後水尾の突然かつ無断での譲位につながる。
因みに、その中宮和子とは仲睦まじく、2人の皇子、7人の皇女をもうけている。ただし皇子二人は早世している。7歳上のおよつ御寮人に手ほどきを受けた閨の技で、11歳下の徳川和子を十分愛おしんだという事だ。冒頭の絵にあるようなチャーミングな女性だ。ちょっとうらやましい。
そして、院政を敷いた後水尾上皇は文化活動と子孫繁栄にいそしんだ。普通の男ならば様々な制約があるが、やんごとなきお方にはそんな制約はなく自由奔放に振舞った。現代であれば飲む・打つ・買うという事になるが、そこは高貴な方の事、やることは決まっている。寺院の建立や庭園(別荘)の建設だ。晩年に向けて、有名な修学院離宮の創造に専念する。和子の配慮もあり徳川家の金銭的な支援も取り付けたのだろう。離宮は、上御茶屋・中御茶屋・下御茶屋の3か所の庭園に分かれていて、54万㎡に及ぶ。候補地としては、聖護院の長谷殿や岩倉殿、また圓通寺の幡枝御所などを見て回り、最終的に、修学院の「御茶屋隣雲亭」辺りに決めたとされる。上皇がしばしば自ら足を運んで指示したことが、近衛予楽院「槐記」という日記に残っている。因みに、単に「離宮」と呼ぶべきであり修学院は周辺の地名である。また、中御茶屋は、明治になって近隣の林丘寺の移転に伴ってその建造物を取り込んだものである。一方、生殖活動はすさまじい。記録に残るだけで、7人の女御や中宮相手に36名の皇子・皇女を残した。ご自身が22歳の時に7歳上のおよつ御寮人との間に1男1女をもうけた後は、中宮徳川和子(東福門院)とは、7名のお子をもうけている。ただ男子は育たず皇女のみが成長した。その後は、5名の典侍(下級の宮廷女官)を愛し続けて、最終61歳まで子をもうけている。特に、幕府が正式に院政を認めた1937年あたりからご自身の40歳代の男盛りにはすさまじい勢いで子作りを行っている。40歳前半で10名以上子が出来ている。平均寿命が50歳までの時代に、この精力は如何なものだろう。現代ならギネスものだ。古代の天皇にもその例は多いが、その結果歴史に貴重な軌跡を生む。
清和天皇が多くの子をつくったお陰で臣籍降下し、源氏(清和源氏)の祖となった。平氏の祖である桓武平氏も桓武天皇の生殖力のお陰だ。一方、後水尾上皇は、京都の門跡寺院の隆盛に大きく貢献した。宝鏡寺や霊鑑寺などの有名な尼門跡寺院はほとんどが後水尾の皇女が祖になっているか中興となっている。その結果、宮廷文化の伝承をこれらの寺院を通じて今、我々を楽しませてくれる。
最後に、所縁のお寺を一つ紹介する。
〇 「戒光寺」 釈迦如来立像の首に血の跡?
泉涌寺の参道を歩いていると、ほとんどの人が通り過ぎるお寺がある。「10mの木造釈迦如来像」と書いてある。塔頭 戒光寺(かいこうじ)は、丈六の釈迦如来像が有名なお寺だ。これは、後水尾天皇身代わりの仏像とされる。作は運慶湛慶なので鎌倉時代なのだが、よく見ると首のあたりに何かシミが見える。後水尾天皇の東宮時代、即位争いに巻き込まれ暗殺されそうになる。しかし首を絞められたが奇跡的に助かり、その後、この釈迦如来の首に血の跡が見つかった。それ以来、身代わりのお釈迦様と言われそして、首から上の病気にご利益があるとされ、その大きさから「丈六さん」と親しまれる事になる。ありがたいことです。丈六とは、仏像の本来の大きさで、立って5.4メーターほどだ。
後水尾天皇は、前半生は、幕府に抗ったが、後半生は優雅に文化に専念した。85歳の長寿を全うし昭和天皇がそれを越えるまで最長寿の天皇であった。その年齢を越えた時の、昭和天皇の記者会見のコメントが素晴らしい、
「後水尾天皇の時は平均寿命が短く、後水尾天皇の方が立派な記録です」
いずれも大変ご立派な天皇だった。日本人で良かった・・・・。